いかりや長介 エピソード。 いかりや長介のギャラ(年収)は加藤茶よりも多かった!?時価計算してみた

いかりや長介

いかりや長介 エピソード

いかりや長介の息子・碇矢浩一さん いかりや長介は二人の子供がいるが、 長男の碇矢浩一さんが生まれたのは1969年 (昭和44年)。 浩一さんが生まれた時は、 丁度、ドリフターズが破竹の勢いで大人気グループになる切欠となった 【8時だョ! 全員集合】の放送が開始された年だった。 番組収録やリハーサル、その他の営業活動、 付き合いなどで殆ど家に帰ってこなかったいかりや長介。 たまに家に帰って来ると、 浩一さんには厳しく躾 (しつけ)をする怖い父親だった。 子供の頃の浩一さんがイタズラなんかをすると、 ゲンコツで叩いたりして諫めたそうだ。 そしてよく子供たちに教えていたのは 『 ありがとう、ごめんなさいをちゃんと言える人間になれ。 』 と、いうことであった。 当たり前のことだが、多くの人間が出来ない 礼儀、けじめのつけかたを教えたのだという。 だが、厳しいだけではなく、少ない家族と過ごす時間は普通のお父さんの様に、一緒にお風呂に入ったり、 遊園地などに連れて行ってあげたりしたそうです。 そして、茶目っ気のある形で『 パパ』と呼ばせたりもしていた。 あまり碇矢浩一さんが子供の頃には 一緒には過ごせなかったようだが、精一杯、いかりや長介は 威厳を保ちつつ、深い愛情を注いでいたのだった。 そんな浩一さんが16歳になった 1985年(昭和60年)の時に、長年、放送されていた【8時だョ! 全員集合】が終わる。 いかりや長介は俳優への転身を本格的に考えて、 自宅でも熱心に稽古をしていた。 元々はミュージシャンであり、 その後はコメディアンとなり、次は俳優として生きようとする父のいかりや長介は、 最初は非常に演技が下手であった。 だが、絶え間ない努力の中で 徐々に俳優として認められていく父の姿を見て、息子の碇矢浩一さんは 諦めないことの重要さと尊さを教わったという。 いかりや長介を伝える息子として 息子の碇矢浩一さんは 明治大学付属中野中学校に入学してから、エスカレーター式に進学。 明治大学付属中野中学校 明治大学付属中野高等学校 明治大学経営学部 1993年、大学卒業を控えた 浩一さんの進路に関して、いかりや長介が進言する。 芸能界は不安定でいつ落ちるか分からない仕事だから、 サラリーマンになり安定した生活を送る様にと。 浩一さんはその勧めに従って、 卒業後は一流企業の森永製菓に就職した。 営業部に配属された息子の碇矢浩一さんは、 社会の厳しさに揉まれながら営業マンとしての実力を メキメキとつけていった。 いかりや長介も徐々に俳優として、多くの人々から認知されてきた。 そして、1999年(平成11年)に 大ヒット映画【踊る大捜査線 THE MOVIE】の出演で 俳優として誉れと言える、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞する。 俳優として順調に活動している長さんと同じように、 2003年には浩一さんも10年間の営業マンとしての実績が会社側から評価されて、 芸能界とも繋がりがある広告部に転属。 仕事の内容もテレビやコマーシャルの 制作やタレントのキャスティング業務などになる。 が、この年にいかりや長介は 自分の身体がガンに蝕まれていることが分かる。 頸部リンパ節ガンだった。 2004年、いかりや長介がこの世を去ったことが切欠で、 会社勤めをしながらではあるが、ある決断をする。 それは1977年当時、いかりや長介が 設立したドリフターズ事務所の代表取締役になること。 会社の仕事もこなして、 ドリフターズ事務所の取締役としての活動をしながら、執筆活動もするようになった。 それは2006年のいかりや長介の 三回忌法要を迎えたときに思い立ったこと。 『こんなに素晴らしい親父のこと、 何とか形に残して、伝えていくことは出来ないだろうか?』 厳しくても優しくて偉大だったことを 息子の立場だから分かる父・いかりや長介を世間の人たちにもっと知ってもらう為に。 2006年には『親父の遺言』を 息子の碇矢浩一さんは、 2008年12月に大学卒業からずっと勤め上げてきた森永製菓を退職。 その後はドリフターズ事務所の 代表取締役一本で生きていくことしたのだった。 いかりや長介の息子に待つ家族間の争い? そんな碇矢浩一さんは結婚しており、息子二人、娘が二人の6人家族である。 いかりや長介が生前の頃、 浩一さんの子供をさぞかし可愛がっただろう。 賑やかで平和な家庭を築きながら、 ドリフターズ事務所の取締役として様々な方面で活躍している。 主な業務内容は芸能事業などを取り仕切っており、 他には不動産事業も展開しているという。 浩一さんが代表取締役になる前には、家族間でひと悶着があった。 いかりや長介が亡くなった 2004年3月に判明したのは、遺産の額である。 何と約4億円の資産があり、その相続をめぐっての争いだ。 いかりや長介は三度の結婚をしている。 1人目の妻である女性が浩一さんと 妹のまゆみさんの実の母親であったが、1978年に離婚。 2人目の妻・恵津子さんとは 1979年に結婚し、浩一さんとも過ごしていたが、1989年に死別。 3人目の義子さんとは1993年に 結婚式は挙げているものの、籍は入れていなかった。 と、いうのもいかりや長介も 子供二人・浩一さんやまゆみさんがおり、義子さんも前夫と死別し二人の子供がいた。 そういう理由もあったのだが、これが厄介なことになる起因だった。 入籍していない義子さんが 最期までいかりや長介を看取った為に、法律的に遺産相続は難航したのだ。 義子さんは籍に入っていない為に 法定相続人の資格がなく、いかりや長介の実子二人の同意が必要になる。 浩一さんや娘のまゆみさんは初めから 遺産を分けるつもりであったが、前述した様に4億円もの資産がある。 ・現金 (預貯金)約 3億円。 ・目黒区に850平方メートルの豪邸。 (当時の資産価値で 1億 5000万円) ・別荘や賃貸マンション。 ・生前の作品の著作権やドリフターズ時代のビデオグラムの印税。 ・大人気ドラマ【踊る大捜査】などの出演作品の二次使用料。 何しろ有形無形の資産があり、 分けることが困難・・・というか不可能な状態であった。 この当時は各メディアは碇矢家は『骨肉の争い』に突入と、 面白おかしく吹いていたようだが、実際は厄介なことがあったが、 相続そのものは難航したものの穏便にトラブルなく行われたようだ。 いかりや長介の息子・碇矢浩一の現在は? いかりや長介の息子である碇矢浩一さんに焦点を絞ってまとめてみた。 現在は息子の碇矢浩一さんは、 執筆活動もしておらずに特に表舞台に立つこともしていない様子。 現在でもドリフターズ事務所は存続しているところからみて、 いかりや長介の遺した不動産や資産の運用などをして、しっかりと守っているのだろう。 実際にはこれは非常に難しい。 親の遺産を守るということは、 想像以上に息子・娘にとっては周りからのやっかみなども相まって、 精神的には辛い仕事となることが多い。 おそらく浩一さんもそんな重圧をずっと感じながら、 現在もしっかりと守って生き続けているのだろうと思う。 また、いずれ偉大な父である いかりや長介のエピソードを盛り込んだ本でも書いてくれたなら良いと、 長年のファンである筆者は感じている。

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いかりや長介と志村けんは関係性は?確執や手紙の噂についても!

いかりや長介 エピソード

が、4月5日に放送される『』(TBS系、毎週金曜20:57~)に出演することがわかった。 50年にわたりお笑い界のトップを走り続けてきた志村は、MCのに何を語るのか? 表舞台で自分のことをほとんど語ることがないどころか、素で出るのが苦手でじっくり話す番組には出ないという志村。 今回『金スマ』では、そんな志村の生い立ちから現在に至るまでの軌跡を辿る。 1950年、東村山市に3人兄弟の末っ子として誕生した志村。 祖父母や父親の兄弟も共に暮らす大家族で特に甘やかされることもなく育った彼が、最も恐れる存在……。 それは、柔道五段で、小学校で教頭をしていた父。 冗談が通じない性格で、恐ろしいだけでなく、礼儀やしつけにも厳しかった。 そんな中、小学校3年生の運動会で、徒競走を前に緊張した志村を襲った便意。 スタート直前で漏らしてしまった。 この時は情けなさに泣くことしかできなかった。 その結果、クラス中から「うんこ垂らし」と呼ばれるように。 おもらしのイメージを払拭したい……そんな時にたまたま耳にしたレコードが酔っ払いが登場する落語だった。 志村はクラスのひょうきんものを演じることにした。 友達を誘い初披露したコントは酔っ払いネタ。 続けているうちに「人を笑わせるって気持ちいい!」という感情が生まれた。 これが志村の「お笑い魂」の目覚めだった。 そして、コメディアンを目指すことになるもう1つのきっかけが、テレビとの出会い。 志村がテレビで流れる「雲の上団五郎一座」を夢中になって見ていたら、一緒に見ていた父が笑ったのだ。 厳格で声を出して笑うことなどない父の笑い声を聞いたことで、コメディアンになりたいという思いが志村の中で大きくなっていったという。 志村がお笑いの世界に飛び込みに加入することになったのは、高校の時夢中になったビートルズが関係していた。 志村は当時、ビートルズに憧れていて、彼らを真似し、高校生としては珍しいマッシュルームヘアをしていた。 高校2年生の時、ビートルズがコンサートで初来日。 抽選に外れた志村は、チケットを持っていたクラスの女の子を説得して、なんとかチケットを手に入れた。 その来日公演で前座を務めたのがドリフターズだった……が、志村が観に行ったのは、ドリフが前座を務めた次の日の公演。 当時、ドリフへの思いはなかったと言う。 2人の兄は大学に進学。 志村は兄たちと別の道に進みたいと「コメディアン」になることを決意するが、お笑いの養成所はなく、デビューするには師匠に「弟子入り」か「付き人」からしかなかった。 志村にとって問題は、誰に弟子入りするかだったが、なぜドリフを選んだのか? リーダーであるに弟子入り志願をするため、いかりやの自宅を突き止め、雪の中12時間も待ち続けたという。 ようやく会えたいかりやから「やめそうな奴がいるから、そいつがやめたら連絡する」と言われ、ただ待つ日々が続く。 やがて高校卒業まで2か月。 このまま連絡が来なかったら無職になってしまうという状況の中、その1週間後にいかりやから突然連絡が。 しかしすぐに花開くわけではなかった。 荒井の穴は大きく、コントは低迷。 番組の会議が煮詰まる中、志村が何気なく歌った「東村山音頭」を聞いたいかりやに「舞台でやってみろ」と言われ披露したところ、それが大ウケ。 プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、その後「カラスの勝手でしょ」「ピカピカの1年生」「ヒゲダンス」などヒットギャグを連発。 全国のお茶の間の子どもたちに大ブームとなっていった。 日本を代表するコメディアンのひとりである志村けんが、いかりやの門を叩いてからおよそ50年。 69歳になった志村は現在も舞台に上がり続けている。 その原動力は「舞台が好き」ということだという。 壁にぶつかりながらも、自分で切り開いてきたコメディアン人生。 第一線で活躍している志村の姿を誰よりも喜んでいたのはいかりやだったのかもしれない。 『金スマ』ではいかりやの息子にも話を聞き、ドリフターズとして、そして師匠と弟子としてのいかりやと志村の関係について掘り下げる。 VTRを見ながら志村が涙する場面も……。 中居からの「初めて聞く話もあったかと思いますが、志村さんにとっていかりや長介さんはどんな人?」という質問に、志村が涙を見せて答えた言葉とは?.

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志村けんさんの芸人エピソードまとめ

いかりや長介 エピソード

惜しまれながら、2004年3月20日に他界しました。 その死因は、原発不明頚部リンパ節がんという病でした。 2003年5月にドラマ「高原へいらっしゃい」を降板して入院した当初、いかりや長介自身は頚部にわずかなしこりを感じるだけで、痛みなどの目立った自覚症状はなかったといいます。 いかりや長介は、最初の入院で放射線治療などを行い、経過良好ということで7月には仕事復帰していました。 しかし、後に長男が明かしたところによると、実は復帰時点で家族にだけ「余命はもって8ヵ月」と告げられていたのです。 いかりや長介は俳優としても活躍! ザ・ドリフターズのリーダーだったいかりや長介。 1969年10月から16年にわたって放送された、ドリフの代名詞とも言えるバラエティー番組「8時だョ! 全員集合」が1985年に終了すると、俳優としての活動を始めました。 1987年にはNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」に、1990年には黒澤明の新作映画「夢」に出演し、注目を集めました。 俳優・いかりや長介の魅力を幅広い世代に浸透させたのが、1997年1月から出演したドラマ「踊る大捜査線」です。 いかりや長介は同作品で和久平八郎役を務め、「8時だョ! 全員集合」を見たことがない若いファンからも人気を獲得しました。 さらに1999年には、「踊る大捜査線 THE MOVIE」で、「第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞」を受賞しています。 いかりや長介率いるドリフのギャラ事情がすごかった?高木ブーが明かしたリーダーの姿 いかりや長介率いるドリフターズをスターダムに押し上げた「8時だョ!全員集合」ギャラ事情は? 「8時だョ!全員集合」は、最高視聴率50. 5%を記録したほどの国民的番組。 番組の全盛期、ザ・ドリフターズのメンバーである加藤茶の年収は、およそ14億円だったそう。 これは同番組が放送されていた1969年~1985年までの間のことですから、時価換算すると現在の42億円近い価値があったと思われます。 また、1974年からドリフターズ入りした志村けんは、24歳にしていきなり月収50万円。 当時の大卒初任給が6万円程度だった事を考えると、笑いが止まらなかったはずです。 番組人気に伴って、1回1500万円の値がついていたドリフターズ。 しかし営業が増えても、メンバーのギャラは大きく動きませんでした。 志村けんによると、渡辺プロ時代には均等配分されていたギャラが、「ドリフターズ事務所」が設立された途端に「6:1:1:1:1」になったといいます。 当然6は、いかりや長介。 実際の総資産や年収額は不明ですが、当時の加藤茶を超えていたとしたら、恐ろしい金額であることは間違いありません。 いかりや長介という男はどんなリーダーだったのか?ドリフターズ高木ブーが明かした ザ・ドリフターズのリーダーとして、個性あふれる5人のメンバーをまとめていたいかりや長介。 メンバーの1人である高木ブーは、いかりや長介の死後、いかりや長介についてのインタビューで、「長さんはひと言で言えば厳しかった」と振り返っています。 ドリフの最年長であるいかりや長介と、最年少の志村けんの年齢差は約20歳。 いかりや長介は、ワンマン的リーダーシップに「年齢差」をうまく使っていたと言います。 「8時だョ!全員集合」の生放送が行われていたのは、土曜の夜。 リハーサルは木曜から行われていました。 いかりや長介は、全体の流れや構成を決めていく中で、メンバーを怒鳴ることも少なくなかったそう。 しかし高木ブーは、「演出家としての才能はすごかった」と賞賛しています。 リーダーであるいかりや長介が、4人のメンバーのキャラクターや性格を理解していたからこそ、「8時だョ!全員集合」は16年もの長い間、放送を続けることができたのではないでしょうか。 いかりや長介が遺した財産!加藤茶や志村けん、小泉孝太郎もそれを受け継いだ! いかりや長介 への想いを志村けんが語っていた ザ・ドリフターズの最年少だった志村けんが2020年3月29日に、新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなりました。 70歳でした。 師匠と弟子という関係でもある、いかりや長介と志村けん。 2人の間には不仲説も流れていましたが、志村けんは2019年4月5日に放送された「中居正広の金曜日のスマイルたちへSP」で、「ドリフターズは家族みたいなもの」と語っています。 番組にはいかりや長介の長男が出演し、いかりや長介が亡くなる3週間前、誰にも言わずに志村けんの舞台を観に行っていたことを明かしました。 また、病床で意識が遠のく中、走り書いたメモにあった言葉が「加藤がえらい、志村がえらい」であったことも伝えたのでした。 志村けんは初めて耳にするエピソードに、「今から見ると、笑いに一生懸命だったとわかる。 その後を継いで良かった。 僕の師匠としては間違いなかった」とコメント。 2人をはじめとするザ・ドリフターズのメンバーは、本人たちにしかわからない、強い絆で結ばれていたのが伝わってきます。 笑いを追求するあまりピリピリしていた過去も、空の上で和やかに語り合われているかもしれません。 俳優・小泉孝太郎の理想はいかりや長介 いかりや長介が影響を与えたのは、ザ・ドリフターズのメンバーだけではありません。 俳優の小泉孝太郎は、いかりや長介を「理想の姿」だと語っています。 小泉孝太郎は事務所入り直後から、弟子としていかりや長介に接しました。 いかりや長介とは、車移動、食事、飲みに行くのも一緒。 いかりや長介は、台本の見方や、スタジオのカメラの呼び方まで、丁寧に優しく教えてくれたそうです。 小泉孝太郎は、いかりや長介のように、年齢を重ねて「円熟」と呼ばれる役者に近づくべく、研鑽を積んできたと言います。 家族のような近さゆえ、大きな声で語ることはなくとも、こうした想いはおそらくドリフターズのメンバーの胸にもあったはずです。 いかりや長介 最期の仕事は「ドリフ」だった 奇しくもいかりや長介最期の仕事は、2003年12月に放送された「40年だよ!ドリフ大爆笑スペシャル」となりました。 この時、いかりや長介は、いつ倒れてもおかしくない状態だったそうです。 それでも、40年間妥協無く懸命に走り続けた集大成として、力を振り絞ったいかりや長介。 このようないかりや長介のストイックな姿勢が、加藤茶や志村けんという大スターを生んだのでしょう。 何においてもプロフェッショナルだったいかりや長介の精神力は、実質的な資産より、かけがえのない財産をこの世に遺したのではないでしょうか。

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