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来歴 [ ] 出会いとデビュー [ ] 中学、時代に同級生だった二人は、1973年にヤマハ音楽が主催するオーディションにそれぞれ合格、特待生としてヤマハボーカルスクールに通う事になる。 クッキー名義で1974年のポプコン東海地区大会決勝に進出し「恋のレッスン」を歌っている。 デビューのきっかけとなったテレビ番組『』出演時は、二人おそろいのオーバーオールを着、素朴な雰囲気で登場。 歌も当時ほとんど無名に近かった、グループの曲(ピーマンの「部屋を出て下さい」。 メンバーのうち、叶正子は後に「」のメンバーとして再デビュー)を唄う事で逆に注目され合格する。 『スター誕生! 』で、会社の方針に逆らいプロデビューへの道を拓いたのは、のであった。 歌手デビューに際し、全く異なるキャラクターにプロデュースされる。 手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装(デザイナーは野口庸子)と、リズムやビートを強調した曲調によって、田園風景が似合う素朴な二人組が派手な歌謡デュオになった。 大胆に太ももを開いたりする激しくなダンスを行うことから、デビュー当初は成人向け深夜番組の出演が多かった。 作曲家・は「のに因み『ピンク・レディー』と命名したので『ピンク・レイディーズ』(複数形)にはしなかった」と述べている。 デビュー直後にはキワモノ的な見方もされたが、まずは当時の子供たちが振り付け(すべての手によるもの)を熱心に覚えて真似をし始めた。 そのため山本リンダに代表されるかつてのセクシー歌手とは対照的に、老若男女に幅広く人気を獲得することに成功。 レコードが大ヒットするだけではなく、人気が高まるにつれ衣料品や文房具、食器、自転車や食品まで多くの業種のさまざまな商品に二人の姿がプリントされたグッズが販売され、ピンク・レディーの存在は想像を絶する巨額の経済効果を派生させることになった。 人気絶頂期 [ ] ピンク・レディーのデビュー・シングル「」(1976年8月)は売上60万枚(オリコン調べ)、出荷ベースではミリオンセラーのヒットとなり、1976年末の「」新人賞を獲得、翌1977年に掛けてロングヒットとなる。 この曲では両脚をがに股に開くポーズを含む斬新な踊りが、当時の世間に大きな注目を集めた。 第2弾シングルの「」(1976年11月)、第3弾シングルの「」(1977年3月)もオリコン1位を記録する大ヒットとなる。 そして、第4弾シングルの「」(1977年6月)は、ピンクレディー初のオリコン調べでのミリオンセラーとなった。 当時はデビューしたばかりのがピンクレディーの「渚のシンドバッド」に敬意を表して、同年1977年に大ヒットしたの「」受賞曲「」と「渚のシンドバッド」の曲名を掛け合わせ、自分たちのデビューシングルの曲名を「」としたほどである。 第5弾シングルの「」(1977年9月)もオリコンで12週連続1位を記録する大ヒットとなり、アメリカで外国人歌手によるカバーソングまで発売された。 1977年末、ピンク・レディーは日本レコード大賞において「S・O・S」「カルメン'77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」をノンストップメドレーで歌い「大衆賞」を受賞した。 第6弾シングルの「」(1977年12月)もミリオンセラーを記録し、1978年末の「」を受賞する。 第7弾シングルの「」(1978年3月)もミリオンセラーとなった。 このように、ピンク・レディーの人気絶頂期は、1977年から1978年までの2年間 にわたって続いた。 絶頂期のピンク・レディー人気を支えていたのは主に子供たちであり、のの調査によると、ピンク・レディーの支持層は3歳〜12歳が42. のの年間売上成績でも人気No. 1を獲得した。 また「サウスポー」や「」(1978年9月)などのように、男女の恋愛を直接のテーマとしていない曲も、当時のには見られない特徴的なものだった。 人気は爆発的に高まり、で連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラー(出荷ベース)は、当時の新記録。 オリコンシングルチャートにおける通算首位獲得数(63週)は、2015年1月26日付に、が「」で記録更新するまで最高記録であった (ピンク・レディーは9曲で通算63週を達成。 B'zは47曲で通算64週を達成。 また1977年7月第3週から1978年2月第3週までの28週のうち27週にわたり、ピンク・レディーが1位を獲得していた)。 また女性グループアーティストによる通算9曲首位も、2006年11月20日付に、が「」で記録更新するまで最高記録であった。 3年ほど早くデビュー(9月)していた、アイドルトリオのと比較されることが多かったが、当時のレコード売上枚数はピンク・レディーが圧倒的に上回っていた。 紅白歌合戦辞退・アメリカ進出・日本での人気急落 [ ] 「」(1978年12月)もオリコン1位を獲得、これで1976年の「S・O・S」からオリコンシングルチャート連続首位記録が9曲となった。 そんな中、1978年大晦日の『』への出場を敢えて辞退、系のチャリティー番組『』に出演する。 しかし(・関東地区調べ)は当時の国民的番組であった『紅白』の72. それでも前年度の『』の6. 全盛期を迎える翌、「」(1979年3月)はオリコン4位に留まり、連続首位記録がついにストップする。 その後「」(1979年5月)と、「」(1979年7月)まではオリコンベスト10内を維持した。 だが、日本ではピンク・レディーに変わる新しいアイドル時代の到来、また前代未聞の出場辞退によりマスコミからの激しいバッシングを受け人気が急落、更には事務所のトラブルやメンバーの恋愛トラブルなどが相まってしまう。 ただし、以前から進められていたアメリカでの活動は順調で、全米デビューシングルとなった「」がビルボード総合37位、全米三大ネットワークの一つNBCのゴールデンタイムで、自らの名前を冠する番組を持つなど確実に実績を積んでいた。 しかし、アメリカでの契約を更新することが無いまま帰国することとなり、再び日本での活動に力を入れたものの、一旦ついたマイナスイメージを覆すことは出来ず、往時の勢いを取り戻すことはできなかった。 こうした経緯から、アメリカ進出についても日本では失敗と言われることが多かったが、米国でピンク・レディーほど活躍した日本人歌手は今のところ他には存在しない。 冠番組の放送内容に賛否は分かれているが、米国内ではDVD化もされている。 解散へ [ ] そして1980年、ピンク・レディーは二人揃って解散を発表。 それから7か月後の、で解散コンサートを開催する。 しかし、そのコンサート当日は交じりの冷雨が降り続く悪天候であり、空席が目立ったスタンドに象徴されるように絶頂期の面影はほとんど無く、何かと比較されたキャンディーズの解散コンサート(1978年4月)が超満員だったのと比べると、あまりにも寂し過ぎるものであり、感涙し抱擁する瞬間までテレビサイズに収めるためにディレクターから急かされたとされている。 解散コンサートの観客動員数は主催者発表で3万人、消防署関係者の証言では1万5000人程度とされる。 活動期間は4年7ヶ月。 なお当時の所属事務所は解散直後に倒産し、社長であった貫泰夫も芸能界を離れた。 再結成 [ ] 解散後はそれぞれやとしてソロ活動。 ピンク・レディーとしては、までは期間限定ながら数度、再結成して活動。 二人でテレビ出演する際の衣装は、ケイがピンク、未唯はブルーで登場することが多い。 これは、現役の頃から今までもケイがピンクが大好きだということの表れである。 、解散宣言からちょうど30年後の9月1日に「解散やめ!」を宣言、ピンク・レディーとしての活動を再開しソロ活動と並行して継続することを表明。 2011年5月から本格的な再始動として全国ツアー、ピンク・レディー Concert Tour 2011 "INNOVATION" を開催。 12月31日、の『』に39年ぶりに特別ゲストとして出演した。 これはピンク・レディーの歌詞を担当した作詞家、故・が特別賞を受賞したことを祝したものである。 披露した曲は「ペッパー警部」「ウォンテッド(指名手配)」「UFO」の3曲ノンストップメドレーを歌った。 翌年の2018年12月30日のにも、「UFO」での1978年レコ大受賞当時の司会者・高橋圭三への追悼で再びステージに立った。 2017年よりも1曲多い「UFO」「S・O・S」「渚のシンドバッド」「サウスポー」の4曲ノンストップメドレーを歌った。 年表 [ ]• - 中学2年生の時、ケイがミーの在学するに転校し、演劇部に入ったことで2人が知り合う。 - 当時、浜松市幸にあった音楽教室「ヤマハ四ツ池センター」のミュージックスクールに通い始める。 - コンビ結成。 元々は「クッキー」(当時人気の有った「キャンディーズ」にあやかった)というフォークユニットだった。 - の番組『』にて合格し、8月25日、ビクター音楽産業(現:)よりシングル「」でデビュー。 - 1978年 - のに起用される。 又テレビの露出がこの時期に極端に増え、この2年間がピンク・レディーの「全盛期」とも言われる。 - 「」で大衆賞受賞。 4分30秒のノンストップメドレーを歌った。 レコード大賞をの「」と同点投票で逃す。 - 「」で受賞、「」で第9回受賞。 - シングル「」で全米デビュー。 - 9月1日に7ヵ月後の解散を宣言。 - 解散。 - 1度目の再結成。 - 2度目の再結成。 に出場。 更にと共演し、新旧女性アイドルデュオ同士での共演が実現した。 - に出場• - 3度目の再結成( - )。 - に出場。 ミレニアムを記念してのNHKからの出場要請を快諾し、この年の出場歌手中最大の目玉となった。 また、関西地区では全出場歌手中最大の視聴率を記録した。 - 「CRピンク・レディー」()が当時メーカー過去最大の売り上げを誇ったほど大ヒット。 翌2003年の再結成へのきっかけとなる。 - 4度目の再結成。 同年から2年間限定で全国ツアーを実施する。 Vol. 1のツアー・タイトルは『PINK LADY TYPHOON〜AGAIN〜ピンク・レディー メモリアル・コンサート -JAPAN TOUR 2003-』。 - 音楽番組『』にてと共演、世代を超えた国民的アイドル同士での共演が実現した。 ただし未唯は『』初回にて既にゲスト出演で共演している。 - コンサート・ツアー『ピンク・レディー メモリアル・コンサートVol. 2 モンスターパニック』を行う。 - コンサート・ツアー『ピンク・レディー メモリアル・コンサートVol. 3 LAST TOUR Unforgettable Final Ovation』を行う。 (最終公演は『〜グランドフィナーレ〜MEMORIAL CONCERT SPECIAL』)。 - ピンク・レディーのパチンコが再び登場、パチンコで使用される曲の再レコーディングを行った。 - 最初の解散宣言から丁度30年経った同年9月1日に、「解散やめ! 」宣言で5度目となる再結成。 - 3月31日、にてチャリティーイベント「初陣式」を決行。 公演の模様は全てにて配信された。 5月21日のを皮切りに全国ツアーをスタートする。 2017年 - 12月30日、TBS系「」(新国立劇場)において没後10年・作詞家デビュー50年・特別賞受賞のの功績を讃え39年ぶりに出演し、生放送で5分30秒のノンストップメドレーを歌った。 2018年 - 12月30日、TBS系「」歴代司会者の名調子で彩られた名シーンの中で、ピンクレディーが大賞受賞したが伝説として語り継がれている。 当時のピンクレディーは寝る時間が殆ど無く極限状態だったが、高橋圭三の名調子によってかなり(精神状態が)救われた事があったため、敬意と感謝を込めてステージに立ち、生放送で6分30秒のノンストップメドレーを歌った。 2019年 - 6月28日、2019年12月13日公開予定の「」の主題歌として15年ぶりの新曲となる「メテオ」を採用することを発表。 エピソードなど [ ]• 後に(ケイ)は素朴な田舎っぽいイメージは番組に受かるための手段で、当初より歌って踊れる歌手を目指していたと語っている。 当時のテレビ局関係者には素朴な田舎娘だったとの印象が強く、フォーク歌手指向と語られ、グループ名が「白い風船」もしくは「茶ばたけ」・「みかんばこ」になりかけたこともあった。 二人は最初『スター誕生! ピンク・レディーが爆発的に売れるに連れ、から格好の標的にされ 、小川が余罪で追及されたり、スーパーアイドルと総会屋との接点が当時のに散々書かれた。 アイドル歌手では一般的なことだが、活動方針やイメージ戦略などはピンク・レディー本人(ミーとケイ)が立案しているのではなく、所属事務所など周囲の関係者が行っていた。 多忙がたたり、当時の仕事の現場はダブルブッキングなどは日常茶飯事な状態であった。 ミーとケイは、デビュー当時から寝る間もないほどの仕事を課せられていたため、自分たちが実際にどれくらい人気なのか全く分からなかったと後述している。 当時の子供向けテレビ雑誌「」 、「」 、「」 誌上における短期グラビア連載を展開した他、女児の間ではピンク・レディーの振り付けの真似が大流行した。 『』2001年2月9日放送分の「30代の女性は皆ピンク・レディーの振り付けを踊れる?」の調査でも、街頭インタビューを行った一般の女性達が次々と完璧に「UFO」「サウスポー」などを踊りこなし、当時の人気振りを偲ばせた。 当時や、など、ピンク・レディー人気にあやかろうと亜流といえる歌謡グループが複数登場したのも人気を物語るエピソードである。 絶頂期当時、ピンク・レディーのブロマイドの販売数も驚異的なものであったが、や他のアイドル達の写真がスタジオなどできちんとした撮影がされているのに比べてピンクレディーの写真はその多くがテレビ局の廊下や階段などで撮影されたものが使用されている。 これは写真スタジオで撮影するだけの時間が全くなかったほど多忙であり、番組出演の移動の合間に手っ取り早く撮影していたことが理由であったと本人達が後に語っている。 アメリカ進出の経緯については一般に知られていないが、多くのファンを得て、米3大ネットワークのNBCで主演の冠番組を獲得するなど、当時の外国人デュオとしては成功を収めた。 しかしながら、よりセックスアピールを前面に出したスタイルであったため、国内でのイメージを損なう恐れがあるとの判断から日本ではほとんど報道されなかった。 アメリカのマーケットにおける長期的な見通しの欠如と、国内マーケット重視の営業判断から、活動途中でアメリカから撤退を余儀なくされた。 また当時、主に私生活上(特に恋愛関係)の要因からケイが日本への帰国を強く主張していたことを、後にケイ自身が著書で明らかにしており 、それもアメリカ撤退の一因となった。 一方でテレビプロデューサーでコメンテーターでもあるが、「ピンクレディーは名前が悪すぎた。 アメリカでピンクレディーという名前では売れるはずがないんですよ。 『』2007年2月27日号に掲載された「ピンク・レディーde」のについて、無断で掲載された侵害のを求めて提訴したものの、で訴えが棄却され、主張した損害賠償請求は認められなかった(ピンク・レディー事件、最高裁判所 平成21 受 2056 民集第66巻2号89頁)。 シングル [ ] 現役時代 [ ]• (1976年8月25日) 作詞のの書籍『夢を食った男たち - 「スター誕生」と黄金の70年代』によると、阿久がこの曲名をつけた際の由来についてはからの引用か、またはからか、『』の登場人物クルーゾー警部からか、落語のの落ちに登場する胡椒(故障)からペッパーを連想したのか、あるいはの往年のヒット曲「若いお巡りさん」 からの連想なのかもしれないが、どれも(阿久悠自身による)後付けの解釈であり、本当のところは分からないとしている。 なお、映画『』と『』に出てくるペッパー保安官(後に警部)については同書では言及されていない。 ダンスで大胆に足を開く振り付けは当初は下品とマスコミ関係者に不評であった。 B面の「乾杯お嬢さん」も人気で、こちらはキャンディーズを意識した楽曲でもあった。 前述書『夢を食った男たち』によると、阿久は最初からA面を「ペッパー警部」、B面を「乾杯お嬢さん」にするつもりで作詞したが、当初ビクターは「乾杯お嬢さん」をA面で売り出そうとしたという。 (1976年11月25日) 初の1位。 イントロにSOSのが入っており、のに関する条項との兼ね合いを懸念したラジオ局では一時期放送を自粛したところもあった。 また、テレビ出演時は発売直後のみモールス信号からはじまるイントロを使用していたが、ただちにそれを抜いた演奏に切り替えられた。 (1977年3月10日) この曲あたりから激しい振り付けが増えてゆき、さらなるインパクトがつけられた。 (1977年6月10日) オリコン上における初のミリオン・セラーで、以後「モンスター」までオリコンでは5作連続でミリオン・セラーを記録。 オリコンチャートにおいて計8週に渡り1位を獲得。 (1977年9月5日) オリコンチャートで「渚のシンドバッド」から連続して1位を獲得し続け、この曲だけで12週連続1位を獲得。 簡単な振り付けが子供たちの間に広まり、振り付けの真似が流行るきっかけとなる。 が結成初期のコンサートで演奏したこともある。 (1977年12月5日) オリコン枚数155万枚、出荷枚数195万枚。 ピンク・レディーのシングルとしては最大の売上を記録(オリコン枚数、出荷枚数共に)。 「ウォンテッド(指名手配)」からの「」(1週のみ)を挟んでオリコンチャートで10週連続1位を獲得。 第20回日本レコード大賞受賞曲。 (1978年3月25日) 当時まだ珍しかった「オリコン初登場1位」を達成。 歌詞中には同時代のスターであったをイメージした打者が登場する(を参照されたい)。 また、の応援歌では、現在も山本リンダの「狙いうち」等と共に定番の曲である。 同曲にはになったバージョンが存在する。 こちらは歌詞も曲調も異なり、王貞治をイメージした打者も登場しない。 こちらはレコーディングまでされたものの日の目を見ることはなかった。 没バージョンの「サウスポー」は、2008年になって阿久悠の作詞作品を集めたCD-BOX『続・人間万葉歌』に収録され商品化された。 主演の映画『』内では挿入歌となり、倍賞美津子の演じるメリーさんこと娼婦との再会シーンでこの曲が流された。 (1978年6月25日) 出だしから「ワハハハ…」という不気味なモンスターの声(都倉俊一の声に音声加工)に、二人が「キャー!」と叫ぶイントロが話題になった。 (1978年9月9日) レコード予約枚数が60万枚を超え当時としては異例の記録を作った。 また衣装は三角ブラとホットパンツを基調としたシースルーの衣装で歌った。 B面は『』の主題歌「スーパーモンキー孫悟空」。 『』 第74話「恐怖のカメレオン人間」では挿入歌としてこの曲が使用されていた。 主演のアクション映画『』では挿入歌となり、主人公達のアジトであるバー亜邪馬の店内で、松田の演じる主人公「島勝男」が都築興業襲撃の最初の打ち合わせをしていた時にこの曲が流された。 (1979年3月9日) デビュー曲以来続いた出荷枚数の連続100万枚突破記録、「S・O・S」以来続いたオリコン連続1位記録が途切れるが、総シングルレコードの売上合計枚数が1000万枚を突破した。 これもオリコン史上初となる快挙であった。 「カメレオン・アーミー」と同じく、『俺達に墓はない』で、島が都築興業の襲撃に失敗して滝田と手を組み、店に帰ってきてミチが店を開いていた時に、この曲が流れていた。 (1979年5月1日) の「In The Navy」をカヴァー。 同じカヴァー曲の「ヤング・セーラーマン In The Navy 」と競作となる。 (1979年7月5日) B面の「USA吹込盤」は、がコーラスに参加。 (1979年9月5日) 全米デビューシングル。 誌の「」で37位にランクインした。 総合チャートにおいてはに次ぐ記録。 2011年までの時点で40位以内に入った最後の日本人歌手となる(ラジオ番組『』の影響もあり、40位以内へのランクインがヒット曲の基準として重視される傾向にある)。 (1979年9月9日) ・のコンビが「そろそろ、子どものお客を無視した、ミーとケイ、ふたりのための曲を作ろう」と話し合った上で作りあげた。 (1979年12月5日) 1980年のに出場予定だった日本選手を応援するため、「がんばれ! ニッポン募金 Do your best! 」というキャッチフレーズでピンク・レディーが選手強化募金を呼びかけた曲。 その後により、アメリカに続き日本もモスクワオリンピックをボイコットし、強化募金呼びかけは消滅。 フジテレビ『』では披露されていない。 (1980年3月5日) 発売当時、ピンク・レディーはアメリカで活動中だったため、テレビでは一度しか歌われなかった曲。 (1980年5月21日) 日本帰国後のシングル。 当時解散説が流れ、2人と事務所は当初完全否定していたが、それから約3か月後の9月1日に解散宣言を公表する。 (1980年9月21日) アメリカで発売したアルバム『』収録曲「Strangers When We Kiss」の日本語バージョン。 (1980年12月5日) 後に映画『』の主題歌を大ヒットさせるが歌った、映画『フェーム』の主題歌を日本語でカバーしたもの。 (1981年1月21日) 発表当時からテレビで歌われたことが一度も無く、2005年5月27日に行われた『〜グランドフィナーレ〜MEMORIAL CONCERT SPECIAL』の最中に、コンサートの中で歌っていないシングル曲があるが、歌うことを封印したことが告げられ、実際に最後まで歌われることは無かった。 よって振り付けなどは不明。 1980年に発売されたの「偽りの瞳」(作詞: ・、作曲・編曲・プロデュース: 高橋幸宏)と異歌詞同曲で、作詞は、編曲とプロデュースは高橋幸宏自身が手がけたテクノ歌謡。 (1981年3月5日) ラスト・シングル。 二人の曲を結果的に最も多く手掛けた阿久悠・都倉俊一コンビが最後を飾ることになった。 なおピンク・レディーが1981年解散の後、未唯mie(当時・MIE)は1984年に「」(系「」主題歌)を、増田恵子(当時・けい子)は1982年に「」(作詞・作曲)を、それぞれソロ歌手として大ヒットさせている。 解散後 [ ] 1度目の再結成時 [ ]• (1984年6月21日)• ピンク・レディーとして3年ぶりのシングル。 より発売。 2度目の再結成時 [ ] 1990年、より「 2年目のジンクス/ポロロッカ」がシングル発売される予定だったが、未唯とケイの契約上の問題など諸事情から見送られた。 「2年目のジンクス」はNHKのテレビ番組出演時に披露され、同年末のにおいても、「ピンク・レディー・メドレー 」の中で歌われた。 この2曲は1993年に、ビクターから発売されたベスト・アルバム『BEST ONE』に収録された。 3度目の再結成時 [ ]• (1996年11月21日)• シングルとしては「不思議LOVE」以降12年ぶりの新曲。 ビクターエンタテインメント(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)より発売。 4度目の再結成時 [ ]• (2003年5月2日)• NHK『』、より発売。 メテオ [映画 妖怪ウォッチY学園] 2019 その他 [ ]• PINK LADY DANCE MIX TRAX(1993年9月) - リミックス・シングル• リミックス・マキシ・シングル(1996年8月) - 5枚同時発売• ペッパー警部• カルメン'77• 渚のシンドバッド• UFO• モンスター アルバム [ ] スタジオ・アルバム [ ]• (1977年1月25日)• (1978年11月5日)• (1979年8月5日)• (1979年9月5日)• 1979年6月1日に全米で発売されたアルバム『PINK LADY』と同内容の日本版• (1979年12月1日)• 洋楽のカバー・アルバム• (1984年6月21日) ライブ・アルバム [ ]• (1977年6月5日)• (1977年9月10日)• バイ・バイ・カーニバル(1978年3月5日)• アメリカ!アメリカ!アメリカ!(1978年6月25日)• '78ジャンピング・サマー・カーニバル(1978年9月5日)• LIVE IN 武道館(1979年2月5日)• さよならピンク・レディー(1981年6月25日)• 1981年3月31日、後楽園球場で行われた解散コンサートを収録 ベスト・アルバム [ ]• (1977年12月5日)• ベスト・ヒット・アルバム(1978年12月5日)• UFO/サウスポー(1979年6月1日)• ターニング・ポイント(1980年12月5日)• PINK LADY(1981年3月21日)• 全米発売された『PINK LADY』とは別。 新曲11曲を含む全42曲収録の3枚組限定ベスト・アルバム(通称・銀箱)。 PINK LADY HISTORY 〜ピンク・レディー・シングル全曲集〜(1990年12月1日)• BEST ONE(1993年12月1日)• 「2年目のジンクス」「ポロロッカ」収録• TWIN BEST(1995年6月28日)• シングル「」含む本人選曲のベスト・アルバム• ピンク・レディー ベスト・ヒット・アルバム(2003年6月4日)• 1977年版のベスト・ヒット・アルバムをCD化し、更にそれ以降に発売されたシングルA面曲集を加えた2枚組のベスト・アルバム• MEGA HITS!! (2006年2月22日)• オリジナル・カラオケDiscを含む2枚組ベスト・アルバム• ピンク・レディー「阿久 悠 作品集」(2008年3月26日)• 1981年までのシングルA・B面を完全収録• INNOVATION(2010年12月1日)• 現役当時のマスターテープをそのまま使い、ヴォーカルのみ新しく録音し直したベスト・アルバム。 これは、当時の一流スタジオミュージシャンの演奏まで捨てて新アレンジにするのは惜しいという理由からのもの。 リミックス・アルバム [ ]• BLOOD NEW(1987年12月1日)• REMIXES(1990年12月5日)• RARE TRAX(2006年1月21日) サウンドトラック [ ]• (1978年12月25日) CD-BOX [ ]• ピンク・レディー・プラチナ・ボックス(2006年5月31日)• CD4枚+DVD2枚。 クッキー時代の曲「恋のレッスン」の新録を収録。 諸事情により「2001年愛の詩」が収録されていない。 DVDにはNHKの『』・『第11回』(1978年)・『とびだせヤング! PINK LADY ORIGINAL ALBUM COLLECTION BOX(2006年7月26日)• 『ペッパー警部』から『バイ・バイ・カーニバル』までの4作を収納。 Singles Premium(2011年8月25日)• CD23枚+DVD2枚。 1981年までのシングルA・B面、「サウスポー」の幻の初期バージョンを収録。 DVDには『スター誕生! 』・『NTV紅白歌のベストテン』を中心とした日本テレビ出演時の番組映像と、1978年のコンサート『アメリカ!アメリカ!アメリカ!』(ラスベガス公演)・『'78ジャンピング・サマー・カーニバル』(後楽園球場コンサート)のライブ映像が収録されている。 映像作品 [ ] VHS・LD・VHD [ ]• ピンク・レディ FOREVER 武道館ライブ 1984• ピンク・レディーのすべて〜スター誕生からさよならピンク・レディーまで〜(1990年10月5日)• NOW in Los Angels(1991年3月21日)• PINK EYED SOUL(1997年1月1日)• 再会 Pink Lady(1997年9月19日)• メモリアル・コンサートVol. 3 PINK LADY LAST TOUR Unforgettable Final Ovation(2005年8月25日)• (2006年7月28日)• ピンク・レディー IN 夜のヒットスタジオ〜フジテレビ秘蔵映像集〜(2011年5月27日)• CONCERT TOUR 2011 "INNOVATION"(2011年12月28日) DVD BOOK [ ]• (2004年7月8日)• (2004年8月31日) テレビ作品 [ ]• (第2期)() 1976年10月9日から1977年3月26日まで、毎週土曜23時45分から0時15分に放送していた、初レギュラー番組(他のレギュラーは・・)。 ピンク・レディーは第1期のと同じ役割だった。 放送は半年で終了するが、これがきっかけで、提供スポンサーののCMに出る様になる。 () に似せた人形が演じる人形劇。 ピンク・レディーは主題歌と劇中歌を担当し、顔出しでレギュラー出演していた。 劇中歌は持ち歌の替え歌が多かった。 () 1977年10月16日から1978年3月26日まで、2クール(23回)に渡り放映された、ドラマ形式のバラエティ。 かつてで放送された『』のオマージュ作品。 ピンク・レディーは自動車修理人役で主演。 (日本テレビ)• ディス・イズ・ピンク・レディー(東京12チャンネル)• 1978年10月24日から1979年6月26日に、東京12チャンネルで放送されたアニメ作品。 全34話および前夜祭1回と総集編2本からなる。 「本人達にあまりにも似ていない」と不評であったため、シリーズ途中でをやり直したという逸話がある。 (日本テレビ)• (TBS)• (テレビ朝日) 基本的には人形劇で、ピンク・レディーもモンピーと言う架空の動物着ぐるみの姿で登場する(イメージを似せて、本人たちが声を担当しているだけで、を担当しているわけではない)。 ゲスト・スターのコーナーでも、ゲスト・スター本人と着ぐるみが時々入れ替わる演出や、ピンク・レディーの持ち歌コーナーでは、本人と着ぐるみが共演して踊るといった演出が行われた。 (TBS) 1978年4月から9月まで放送。 『たまりまセブン』の流れを汲むドラマ・バラエティ。 ピンク・レディーは、扮する未来人「フェルメーテ」の実姉・ミーテ(ミー)とケーテ(ケイ)役でレギュラー出演。 (1978年12月31日、日本テレビ) それまで放送していた『』に代わって放送した、『』対抗番組。 ピンク・レディーはこの出演のため、『』の出場を辞退した。 (TBS) 『飛べ! 孫悟空』の後番組として、放送開始からしばらくの間はピンク・レディーが司会だったが、アメリカ進出の間の代役だったはずの(なお、伊東の前の司会役はだった)が結局そのまま司会の定位置におさまることとなった。 おなじみのフレーズ "Now Get the Chance! " も、ピンク・レディー司会の時代から引き続き使われていたものである。 (アメリカNBC)• Forever'84 Pink Lady~お元気でした?~(1984年9月9日、TBS) 渋谷公会堂での同窓会コンサートの模様を収録。 バックダンサーをが勤めた。 CM [ ]• ラブリーチョコ• アーモンドダン• チョコリロ• グリコしぐれ• めんくらべ• シャワラン トリートメントセブン• 金鳥蚊取りマット• ナショナル薄型ラジオ ペッパー• ナショナル電子制御エアコン クールクール• (歌唱のみ) 他多数 映画 [ ]• (1978年12月16日、)• (『』内で公開された24分作品の映画。 1979年3月17日、)• (1979年9月8日、) 絵本 [ ]• ひかりのくに ピンクレディー絵本 3 モンスター• ひかりのくに ピンクレディー絵本 4 透明人間• ひかりのくに ピンクレディー絵本 5 カメレオン・アーミー• ひかりのくに ピンクレディー絵本 6 ミラクル伝説 ジパング 脚注 [ ] []• なお小川も、へ起用を売り込んだ• それ以前にも、『』でが「勝手にシンドバッド」というギャグを披露している• スポニチ 2011年8月16日記事]• 2015年1月23日. 2015年3月3日閲覧。 『』1979年1月4日付夕刊、6頁、1979年1月6日付夕刊、7頁。 、、、、成松哲『バンド臨終図巻』、2010年、141頁。 『』1981年4月17日号、20頁。 - 2010年9月1日付、• 2010年9月10日, at the. - 2010年9月1日付、• 2017年12月18日 ハフィントンポスト• - ORICON NEWS 2019年6月28日(2019年6月29日閲覧)• - 貫泰夫のブログ、、• 』、2014年、87、90-92。 - 『ぶらりぶらり』 2009年4月28日付、 - 『ぶらりぶらり』 2008年12月付• 『』 1977年7月17日号、151 - 152頁、夕刊、1981年1月24日、7頁、、1978年1月22日号、111頁• 地方公演に行った際、驚異的な数の観衆が集まっているのを見て、初めて自分たちが爆発的な人気を得ていると実感したという。 当時の多忙ぶりを象徴するエピソードとして『』にゲスト出演した際、最後に出演者一同が布団に入り「お休みなさい」と言って番組終了を伝えるシーンで、演技ではなく本当に眠ってしまったことがある。 このようなファン層を意識して近年のツアーでは会場は全てオールスタンディング、キャパシティーに対して一人一人それぞれ肩がぶつからない程度のスペースを保てるように販売数が調整されており、客が振り付けを完コピして全員が一体となって踊りくるうというライブが繰り広げられている。 増田恵子著『あこがれ』(、)• 公園のベンチにいるカップルに「早く帰りなさい」と諭す巡査が主人公の歌。 「ペッパー警部」と同じビクターより発売• モールス符号による通信は、1999年に廃止されている。 「サウスポー 」として収録。 CMソングの「シャワランきらめきの夏」で一部分が使用されている。 (当時の)未発表曲をCMソングに流用していたことが伺える。 正式な発売日以前にフライング発売された分がオリコンに集計されたため。 解散コンサートでのアンコール前のラストナンバーは舟木一夫が1980年に発表した自作曲『グッド・バイ・ソング』のカバーだった(『舟木一夫の青春賛歌』2012年 産経新聞出版 P185・186、アルバム『さよならピンク・レディー』で『OH! 』の後に歌われているのが確認できる)。 実際に最後に唄ったのはレイフ・ギャレットの「ダンスに夢中(I was made for dancin')」である。 これは、当時発売のライヴ・アルバム『さよならピンク・レディー』にも、同時放送の時間内の中でも放映されず、収録されているのは現行ではVHSの『ピンク・レディーのすべて〜スター誕生からさよならピンク・レディーまで〜』だけである。 「S・O・S」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド 指名手配 」「2年目のジンクス」のメドレー• 「ペッパー警部」「UFO」「サウスポー」のメドレー• 「S・O・S」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド 指名手配 」「2年目のジンクス」のメドレー• 「ペッパー警部」「UFO」「サウスポー」のメドレー 関連項目 [ ]• - ユニットの名の由来になっているカクテル 外部リンク [ ]• - による公式サイト•

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ピンクレディーミーの今現在の鼻や顔は?昔の若い頃と画像で比較!

ピンク レディー ミー 年齢

来歴 [ ] 出会いとデビュー [ ] 中学、時代に同級生だった二人は、1973年にヤマハ音楽が主催するオーディションにそれぞれ合格、特待生としてヤマハボーカルスクールに通う事になる。 クッキー名義で1974年のポプコン東海地区大会決勝に進出し「恋のレッスン」を歌っている。 デビューのきっかけとなったテレビ番組『』出演時は、二人おそろいのオーバーオールを着、素朴な雰囲気で登場。 歌も当時ほとんど無名に近かった、グループの曲(ピーマンの「部屋を出て下さい」。 メンバーのうち、叶正子は後に「」のメンバーとして再デビュー)を唄う事で逆に注目され合格する。 『スター誕生! 』で、会社の方針に逆らいプロデビューへの道を拓いたのは、のであった。 歌手デビューに際し、全く異なるキャラクターにプロデュースされる。 手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装(デザイナーは野口庸子)と、リズムやビートを強調した曲調によって、田園風景が似合う素朴な二人組が派手な歌謡デュオになった。 大胆に太ももを開いたりする激しくなダンスを行うことから、デビュー当初は成人向け深夜番組の出演が多かった。 作曲家・は「のに因み『ピンク・レディー』と命名したので『ピンク・レイディーズ』(複数形)にはしなかった」と述べている。 デビュー直後にはキワモノ的な見方もされたが、まずは当時の子供たちが振り付け(すべての手によるもの)を熱心に覚えて真似をし始めた。 そのため山本リンダに代表されるかつてのセクシー歌手とは対照的に、老若男女に幅広く人気を獲得することに成功。 レコードが大ヒットするだけではなく、人気が高まるにつれ衣料品や文房具、食器、自転車や食品まで多くの業種のさまざまな商品に二人の姿がプリントされたグッズが販売され、ピンク・レディーの存在は想像を絶する巨額の経済効果を派生させることになった。 人気絶頂期 [ ] ピンク・レディーのデビュー・シングル「」(1976年8月)は売上60万枚(オリコン調べ)、出荷ベースではミリオンセラーのヒットとなり、1976年末の「」新人賞を獲得、翌1977年に掛けてロングヒットとなる。 この曲では両脚をがに股に開くポーズを含む斬新な踊りが、当時の世間に大きな注目を集めた。 第2弾シングルの「」(1976年11月)、第3弾シングルの「」(1977年3月)もオリコン1位を記録する大ヒットとなる。 そして、第4弾シングルの「」(1977年6月)は、ピンクレディー初のオリコン調べでのミリオンセラーとなった。 当時はデビューしたばかりのがピンクレディーの「渚のシンドバッド」に敬意を表して、同年1977年に大ヒットしたの「」受賞曲「」と「渚のシンドバッド」の曲名を掛け合わせ、自分たちのデビューシングルの曲名を「」としたほどである。 第5弾シングルの「」(1977年9月)もオリコンで12週連続1位を記録する大ヒットとなり、アメリカで外国人歌手によるカバーソングまで発売された。 1977年末、ピンク・レディーは日本レコード大賞において「S・O・S」「カルメン'77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」をノンストップメドレーで歌い「大衆賞」を受賞した。 第6弾シングルの「」(1977年12月)もミリオンセラーを記録し、1978年末の「」を受賞する。 第7弾シングルの「」(1978年3月)もミリオンセラーとなった。 このように、ピンク・レディーの人気絶頂期は、1977年から1978年までの2年間 にわたって続いた。 絶頂期のピンク・レディー人気を支えていたのは主に子供たちであり、のの調査によると、ピンク・レディーの支持層は3歳〜12歳が42. のの年間売上成績でも人気No. 1を獲得した。 また「サウスポー」や「」(1978年9月)などのように、男女の恋愛を直接のテーマとしていない曲も、当時のには見られない特徴的なものだった。 人気は爆発的に高まり、で連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラー(出荷ベース)は、当時の新記録。 オリコンシングルチャートにおける通算首位獲得数(63週)は、2015年1月26日付に、が「」で記録更新するまで最高記録であった (ピンク・レディーは9曲で通算63週を達成。 B'zは47曲で通算64週を達成。 また1977年7月第3週から1978年2月第3週までの28週のうち27週にわたり、ピンク・レディーが1位を獲得していた)。 また女性グループアーティストによる通算9曲首位も、2006年11月20日付に、が「」で記録更新するまで最高記録であった。 3年ほど早くデビュー(9月)していた、アイドルトリオのと比較されることが多かったが、当時のレコード売上枚数はピンク・レディーが圧倒的に上回っていた。 紅白歌合戦辞退・アメリカ進出・日本での人気急落 [ ] 「」(1978年12月)もオリコン1位を獲得、これで1976年の「S・O・S」からオリコンシングルチャート連続首位記録が9曲となった。 そんな中、1978年大晦日の『』への出場を敢えて辞退、系のチャリティー番組『』に出演する。 しかし(・関東地区調べ)は当時の国民的番組であった『紅白』の72. それでも前年度の『』の6. 全盛期を迎える翌、「」(1979年3月)はオリコン4位に留まり、連続首位記録がついにストップする。 その後「」(1979年5月)と、「」(1979年7月)まではオリコンベスト10内を維持した。 だが、日本ではピンク・レディーに変わる新しいアイドル時代の到来、また前代未聞の出場辞退によりマスコミからの激しいバッシングを受け人気が急落、更には事務所のトラブルやメンバーの恋愛トラブルなどが相まってしまう。 ただし、以前から進められていたアメリカでの活動は順調で、全米デビューシングルとなった「」がビルボード総合37位、全米三大ネットワークの一つNBCのゴールデンタイムで、自らの名前を冠する番組を持つなど確実に実績を積んでいた。 しかし、アメリカでの契約を更新することが無いまま帰国することとなり、再び日本での活動に力を入れたものの、一旦ついたマイナスイメージを覆すことは出来ず、往時の勢いを取り戻すことはできなかった。 こうした経緯から、アメリカ進出についても日本では失敗と言われることが多かったが、米国でピンク・レディーほど活躍した日本人歌手は今のところ他には存在しない。 冠番組の放送内容に賛否は分かれているが、米国内ではDVD化もされている。 解散へ [ ] そして1980年、ピンク・レディーは二人揃って解散を発表。 それから7か月後の、で解散コンサートを開催する。 しかし、そのコンサート当日は交じりの冷雨が降り続く悪天候であり、空席が目立ったスタンドに象徴されるように絶頂期の面影はほとんど無く、何かと比較されたキャンディーズの解散コンサート(1978年4月)が超満員だったのと比べると、あまりにも寂し過ぎるものであり、感涙し抱擁する瞬間までテレビサイズに収めるためにディレクターから急かされたとされている。 解散コンサートの観客動員数は主催者発表で3万人、消防署関係者の証言では1万5000人程度とされる。 活動期間は4年7ヶ月。 なお当時の所属事務所は解散直後に倒産し、社長であった貫泰夫も芸能界を離れた。 再結成 [ ] 解散後はそれぞれやとしてソロ活動。 ピンク・レディーとしては、までは期間限定ながら数度、再結成して活動。 二人でテレビ出演する際の衣装は、ケイがピンク、未唯はブルーで登場することが多い。 これは、現役の頃から今までもケイがピンクが大好きだということの表れである。 、解散宣言からちょうど30年後の9月1日に「解散やめ!」を宣言、ピンク・レディーとしての活動を再開しソロ活動と並行して継続することを表明。 2011年5月から本格的な再始動として全国ツアー、ピンク・レディー Concert Tour 2011 "INNOVATION" を開催。 12月31日、の『』に39年ぶりに特別ゲストとして出演した。 これはピンク・レディーの歌詞を担当した作詞家、故・が特別賞を受賞したことを祝したものである。 披露した曲は「ペッパー警部」「ウォンテッド(指名手配)」「UFO」の3曲ノンストップメドレーを歌った。 翌年の2018年12月30日のにも、「UFO」での1978年レコ大受賞当時の司会者・高橋圭三への追悼で再びステージに立った。 2017年よりも1曲多い「UFO」「S・O・S」「渚のシンドバッド」「サウスポー」の4曲ノンストップメドレーを歌った。 年表 [ ]• - 中学2年生の時、ケイがミーの在学するに転校し、演劇部に入ったことで2人が知り合う。 - 当時、浜松市幸にあった音楽教室「ヤマハ四ツ池センター」のミュージックスクールに通い始める。 - コンビ結成。 元々は「クッキー」(当時人気の有った「キャンディーズ」にあやかった)というフォークユニットだった。 - の番組『』にて合格し、8月25日、ビクター音楽産業(現:)よりシングル「」でデビュー。 - 1978年 - のに起用される。 又テレビの露出がこの時期に極端に増え、この2年間がピンク・レディーの「全盛期」とも言われる。 - 「」で大衆賞受賞。 4分30秒のノンストップメドレーを歌った。 レコード大賞をの「」と同点投票で逃す。 - 「」で受賞、「」で第9回受賞。 - シングル「」で全米デビュー。 - 9月1日に7ヵ月後の解散を宣言。 - 解散。 - 1度目の再結成。 - 2度目の再結成。 に出場。 更にと共演し、新旧女性アイドルデュオ同士での共演が実現した。 - に出場• - 3度目の再結成( - )。 - に出場。 ミレニアムを記念してのNHKからの出場要請を快諾し、この年の出場歌手中最大の目玉となった。 また、関西地区では全出場歌手中最大の視聴率を記録した。 - 「CRピンク・レディー」()が当時メーカー過去最大の売り上げを誇ったほど大ヒット。 翌2003年の再結成へのきっかけとなる。 - 4度目の再結成。 同年から2年間限定で全国ツアーを実施する。 Vol. 1のツアー・タイトルは『PINK LADY TYPHOON〜AGAIN〜ピンク・レディー メモリアル・コンサート -JAPAN TOUR 2003-』。 - 音楽番組『』にてと共演、世代を超えた国民的アイドル同士での共演が実現した。 ただし未唯は『』初回にて既にゲスト出演で共演している。 - コンサート・ツアー『ピンク・レディー メモリアル・コンサートVol. 2 モンスターパニック』を行う。 - コンサート・ツアー『ピンク・レディー メモリアル・コンサートVol. 3 LAST TOUR Unforgettable Final Ovation』を行う。 (最終公演は『〜グランドフィナーレ〜MEMORIAL CONCERT SPECIAL』)。 - ピンク・レディーのパチンコが再び登場、パチンコで使用される曲の再レコーディングを行った。 - 最初の解散宣言から丁度30年経った同年9月1日に、「解散やめ! 」宣言で5度目となる再結成。 - 3月31日、にてチャリティーイベント「初陣式」を決行。 公演の模様は全てにて配信された。 5月21日のを皮切りに全国ツアーをスタートする。 2017年 - 12月30日、TBS系「」(新国立劇場)において没後10年・作詞家デビュー50年・特別賞受賞のの功績を讃え39年ぶりに出演し、生放送で5分30秒のノンストップメドレーを歌った。 2018年 - 12月30日、TBS系「」歴代司会者の名調子で彩られた名シーンの中で、ピンクレディーが大賞受賞したが伝説として語り継がれている。 当時のピンクレディーは寝る時間が殆ど無く極限状態だったが、高橋圭三の名調子によってかなり(精神状態が)救われた事があったため、敬意と感謝を込めてステージに立ち、生放送で6分30秒のノンストップメドレーを歌った。 2019年 - 6月28日、2019年12月13日公開予定の「」の主題歌として15年ぶりの新曲となる「メテオ」を採用することを発表。 エピソードなど [ ]• 後に(ケイ)は素朴な田舎っぽいイメージは番組に受かるための手段で、当初より歌って踊れる歌手を目指していたと語っている。 当時のテレビ局関係者には素朴な田舎娘だったとの印象が強く、フォーク歌手指向と語られ、グループ名が「白い風船」もしくは「茶ばたけ」・「みかんばこ」になりかけたこともあった。 二人は最初『スター誕生! ピンク・レディーが爆発的に売れるに連れ、から格好の標的にされ 、小川が余罪で追及されたり、スーパーアイドルと総会屋との接点が当時のに散々書かれた。 アイドル歌手では一般的なことだが、活動方針やイメージ戦略などはピンク・レディー本人(ミーとケイ)が立案しているのではなく、所属事務所など周囲の関係者が行っていた。 多忙がたたり、当時の仕事の現場はダブルブッキングなどは日常茶飯事な状態であった。 ミーとケイは、デビュー当時から寝る間もないほどの仕事を課せられていたため、自分たちが実際にどれくらい人気なのか全く分からなかったと後述している。 当時の子供向けテレビ雑誌「」 、「」 、「」 誌上における短期グラビア連載を展開した他、女児の間ではピンク・レディーの振り付けの真似が大流行した。 『』2001年2月9日放送分の「30代の女性は皆ピンク・レディーの振り付けを踊れる?」の調査でも、街頭インタビューを行った一般の女性達が次々と完璧に「UFO」「サウスポー」などを踊りこなし、当時の人気振りを偲ばせた。 当時や、など、ピンク・レディー人気にあやかろうと亜流といえる歌謡グループが複数登場したのも人気を物語るエピソードである。 絶頂期当時、ピンク・レディーのブロマイドの販売数も驚異的なものであったが、や他のアイドル達の写真がスタジオなどできちんとした撮影がされているのに比べてピンクレディーの写真はその多くがテレビ局の廊下や階段などで撮影されたものが使用されている。 これは写真スタジオで撮影するだけの時間が全くなかったほど多忙であり、番組出演の移動の合間に手っ取り早く撮影していたことが理由であったと本人達が後に語っている。 アメリカ進出の経緯については一般に知られていないが、多くのファンを得て、米3大ネットワークのNBCで主演の冠番組を獲得するなど、当時の外国人デュオとしては成功を収めた。 しかしながら、よりセックスアピールを前面に出したスタイルであったため、国内でのイメージを損なう恐れがあるとの判断から日本ではほとんど報道されなかった。 アメリカのマーケットにおける長期的な見通しの欠如と、国内マーケット重視の営業判断から、活動途中でアメリカから撤退を余儀なくされた。 また当時、主に私生活上(特に恋愛関係)の要因からケイが日本への帰国を強く主張していたことを、後にケイ自身が著書で明らかにしており 、それもアメリカ撤退の一因となった。 一方でテレビプロデューサーでコメンテーターでもあるが、「ピンクレディーは名前が悪すぎた。 アメリカでピンクレディーという名前では売れるはずがないんですよ。 『』2007年2月27日号に掲載された「ピンク・レディーde」のについて、無断で掲載された侵害のを求めて提訴したものの、で訴えが棄却され、主張した損害賠償請求は認められなかった(ピンク・レディー事件、最高裁判所 平成21 受 2056 民集第66巻2号89頁)。 シングル [ ] 現役時代 [ ]• (1976年8月25日) 作詞のの書籍『夢を食った男たち - 「スター誕生」と黄金の70年代』によると、阿久がこの曲名をつけた際の由来についてはからの引用か、またはからか、『』の登場人物クルーゾー警部からか、落語のの落ちに登場する胡椒(故障)からペッパーを連想したのか、あるいはの往年のヒット曲「若いお巡りさん」 からの連想なのかもしれないが、どれも(阿久悠自身による)後付けの解釈であり、本当のところは分からないとしている。 なお、映画『』と『』に出てくるペッパー保安官(後に警部)については同書では言及されていない。 ダンスで大胆に足を開く振り付けは当初は下品とマスコミ関係者に不評であった。 B面の「乾杯お嬢さん」も人気で、こちらはキャンディーズを意識した楽曲でもあった。 前述書『夢を食った男たち』によると、阿久は最初からA面を「ペッパー警部」、B面を「乾杯お嬢さん」にするつもりで作詞したが、当初ビクターは「乾杯お嬢さん」をA面で売り出そうとしたという。 (1976年11月25日) 初の1位。 イントロにSOSのが入っており、のに関する条項との兼ね合いを懸念したラジオ局では一時期放送を自粛したところもあった。 また、テレビ出演時は発売直後のみモールス信号からはじまるイントロを使用していたが、ただちにそれを抜いた演奏に切り替えられた。 (1977年3月10日) この曲あたりから激しい振り付けが増えてゆき、さらなるインパクトがつけられた。 (1977年6月10日) オリコン上における初のミリオン・セラーで、以後「モンスター」までオリコンでは5作連続でミリオン・セラーを記録。 オリコンチャートにおいて計8週に渡り1位を獲得。 (1977年9月5日) オリコンチャートで「渚のシンドバッド」から連続して1位を獲得し続け、この曲だけで12週連続1位を獲得。 簡単な振り付けが子供たちの間に広まり、振り付けの真似が流行るきっかけとなる。 が結成初期のコンサートで演奏したこともある。 (1977年12月5日) オリコン枚数155万枚、出荷枚数195万枚。 ピンク・レディーのシングルとしては最大の売上を記録(オリコン枚数、出荷枚数共に)。 「ウォンテッド(指名手配)」からの「」(1週のみ)を挟んでオリコンチャートで10週連続1位を獲得。 第20回日本レコード大賞受賞曲。 (1978年3月25日) 当時まだ珍しかった「オリコン初登場1位」を達成。 歌詞中には同時代のスターであったをイメージした打者が登場する(を参照されたい)。 また、の応援歌では、現在も山本リンダの「狙いうち」等と共に定番の曲である。 同曲にはになったバージョンが存在する。 こちらは歌詞も曲調も異なり、王貞治をイメージした打者も登場しない。 こちらはレコーディングまでされたものの日の目を見ることはなかった。 没バージョンの「サウスポー」は、2008年になって阿久悠の作詞作品を集めたCD-BOX『続・人間万葉歌』に収録され商品化された。 主演の映画『』内では挿入歌となり、倍賞美津子の演じるメリーさんこと娼婦との再会シーンでこの曲が流された。 (1978年6月25日) 出だしから「ワハハハ…」という不気味なモンスターの声(都倉俊一の声に音声加工)に、二人が「キャー!」と叫ぶイントロが話題になった。 (1978年9月9日) レコード予約枚数が60万枚を超え当時としては異例の記録を作った。 また衣装は三角ブラとホットパンツを基調としたシースルーの衣装で歌った。 B面は『』の主題歌「スーパーモンキー孫悟空」。 『』 第74話「恐怖のカメレオン人間」では挿入歌としてこの曲が使用されていた。 主演のアクション映画『』では挿入歌となり、主人公達のアジトであるバー亜邪馬の店内で、松田の演じる主人公「島勝男」が都築興業襲撃の最初の打ち合わせをしていた時にこの曲が流された。 (1979年3月9日) デビュー曲以来続いた出荷枚数の連続100万枚突破記録、「S・O・S」以来続いたオリコン連続1位記録が途切れるが、総シングルレコードの売上合計枚数が1000万枚を突破した。 これもオリコン史上初となる快挙であった。 「カメレオン・アーミー」と同じく、『俺達に墓はない』で、島が都築興業の襲撃に失敗して滝田と手を組み、店に帰ってきてミチが店を開いていた時に、この曲が流れていた。 (1979年5月1日) の「In The Navy」をカヴァー。 同じカヴァー曲の「ヤング・セーラーマン In The Navy 」と競作となる。 (1979年7月5日) B面の「USA吹込盤」は、がコーラスに参加。 (1979年9月5日) 全米デビューシングル。 誌の「」で37位にランクインした。 総合チャートにおいてはに次ぐ記録。 2011年までの時点で40位以内に入った最後の日本人歌手となる(ラジオ番組『』の影響もあり、40位以内へのランクインがヒット曲の基準として重視される傾向にある)。 (1979年9月9日) ・のコンビが「そろそろ、子どものお客を無視した、ミーとケイ、ふたりのための曲を作ろう」と話し合った上で作りあげた。 (1979年12月5日) 1980年のに出場予定だった日本選手を応援するため、「がんばれ! ニッポン募金 Do your best! 」というキャッチフレーズでピンク・レディーが選手強化募金を呼びかけた曲。 その後により、アメリカに続き日本もモスクワオリンピックをボイコットし、強化募金呼びかけは消滅。 フジテレビ『』では披露されていない。 (1980年3月5日) 発売当時、ピンク・レディーはアメリカで活動中だったため、テレビでは一度しか歌われなかった曲。 (1980年5月21日) 日本帰国後のシングル。 当時解散説が流れ、2人と事務所は当初完全否定していたが、それから約3か月後の9月1日に解散宣言を公表する。 (1980年9月21日) アメリカで発売したアルバム『』収録曲「Strangers When We Kiss」の日本語バージョン。 (1980年12月5日) 後に映画『』の主題歌を大ヒットさせるが歌った、映画『フェーム』の主題歌を日本語でカバーしたもの。 (1981年1月21日) 発表当時からテレビで歌われたことが一度も無く、2005年5月27日に行われた『〜グランドフィナーレ〜MEMORIAL CONCERT SPECIAL』の最中に、コンサートの中で歌っていないシングル曲があるが、歌うことを封印したことが告げられ、実際に最後まで歌われることは無かった。 よって振り付けなどは不明。 1980年に発売されたの「偽りの瞳」(作詞: ・、作曲・編曲・プロデュース: 高橋幸宏)と異歌詞同曲で、作詞は、編曲とプロデュースは高橋幸宏自身が手がけたテクノ歌謡。 (1981年3月5日) ラスト・シングル。 二人の曲を結果的に最も多く手掛けた阿久悠・都倉俊一コンビが最後を飾ることになった。 なおピンク・レディーが1981年解散の後、未唯mie(当時・MIE)は1984年に「」(系「」主題歌)を、増田恵子(当時・けい子)は1982年に「」(作詞・作曲)を、それぞれソロ歌手として大ヒットさせている。 解散後 [ ] 1度目の再結成時 [ ]• (1984年6月21日)• ピンク・レディーとして3年ぶりのシングル。 より発売。 2度目の再結成時 [ ] 1990年、より「 2年目のジンクス/ポロロッカ」がシングル発売される予定だったが、未唯とケイの契約上の問題など諸事情から見送られた。 「2年目のジンクス」はNHKのテレビ番組出演時に披露され、同年末のにおいても、「ピンク・レディー・メドレー 」の中で歌われた。 この2曲は1993年に、ビクターから発売されたベスト・アルバム『BEST ONE』に収録された。 3度目の再結成時 [ ]• (1996年11月21日)• シングルとしては「不思議LOVE」以降12年ぶりの新曲。 ビクターエンタテインメント(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)より発売。 4度目の再結成時 [ ]• (2003年5月2日)• NHK『』、より発売。 メテオ [映画 妖怪ウォッチY学園] 2019 その他 [ ]• PINK LADY DANCE MIX TRAX(1993年9月) - リミックス・シングル• リミックス・マキシ・シングル(1996年8月) - 5枚同時発売• ペッパー警部• カルメン'77• 渚のシンドバッド• UFO• モンスター アルバム [ ] スタジオ・アルバム [ ]• (1977年1月25日)• (1978年11月5日)• (1979年8月5日)• (1979年9月5日)• 1979年6月1日に全米で発売されたアルバム『PINK LADY』と同内容の日本版• (1979年12月1日)• 洋楽のカバー・アルバム• (1984年6月21日) ライブ・アルバム [ ]• (1977年6月5日)• (1977年9月10日)• バイ・バイ・カーニバル(1978年3月5日)• アメリカ!アメリカ!アメリカ!(1978年6月25日)• '78ジャンピング・サマー・カーニバル(1978年9月5日)• LIVE IN 武道館(1979年2月5日)• さよならピンク・レディー(1981年6月25日)• 1981年3月31日、後楽園球場で行われた解散コンサートを収録 ベスト・アルバム [ ]• (1977年12月5日)• ベスト・ヒット・アルバム(1978年12月5日)• UFO/サウスポー(1979年6月1日)• ターニング・ポイント(1980年12月5日)• PINK LADY(1981年3月21日)• 全米発売された『PINK LADY』とは別。 新曲11曲を含む全42曲収録の3枚組限定ベスト・アルバム(通称・銀箱)。 PINK LADY HISTORY 〜ピンク・レディー・シングル全曲集〜(1990年12月1日)• BEST ONE(1993年12月1日)• 「2年目のジンクス」「ポロロッカ」収録• TWIN BEST(1995年6月28日)• シングル「」含む本人選曲のベスト・アルバム• ピンク・レディー ベスト・ヒット・アルバム(2003年6月4日)• 1977年版のベスト・ヒット・アルバムをCD化し、更にそれ以降に発売されたシングルA面曲集を加えた2枚組のベスト・アルバム• MEGA HITS!! (2006年2月22日)• オリジナル・カラオケDiscを含む2枚組ベスト・アルバム• ピンク・レディー「阿久 悠 作品集」(2008年3月26日)• 1981年までのシングルA・B面を完全収録• INNOVATION(2010年12月1日)• 現役当時のマスターテープをそのまま使い、ヴォーカルのみ新しく録音し直したベスト・アルバム。 これは、当時の一流スタジオミュージシャンの演奏まで捨てて新アレンジにするのは惜しいという理由からのもの。 リミックス・アルバム [ ]• BLOOD NEW(1987年12月1日)• REMIXES(1990年12月5日)• RARE TRAX(2006年1月21日) サウンドトラック [ ]• (1978年12月25日) CD-BOX [ ]• ピンク・レディー・プラチナ・ボックス(2006年5月31日)• CD4枚+DVD2枚。 クッキー時代の曲「恋のレッスン」の新録を収録。 諸事情により「2001年愛の詩」が収録されていない。 DVDにはNHKの『』・『第11回』(1978年)・『とびだせヤング! PINK LADY ORIGINAL ALBUM COLLECTION BOX(2006年7月26日)• 『ペッパー警部』から『バイ・バイ・カーニバル』までの4作を収納。 Singles Premium(2011年8月25日)• CD23枚+DVD2枚。 1981年までのシングルA・B面、「サウスポー」の幻の初期バージョンを収録。 DVDには『スター誕生! 』・『NTV紅白歌のベストテン』を中心とした日本テレビ出演時の番組映像と、1978年のコンサート『アメリカ!アメリカ!アメリカ!』(ラスベガス公演)・『'78ジャンピング・サマー・カーニバル』(後楽園球場コンサート)のライブ映像が収録されている。 映像作品 [ ] VHS・LD・VHD [ ]• ピンク・レディ FOREVER 武道館ライブ 1984• ピンク・レディーのすべて〜スター誕生からさよならピンク・レディーまで〜(1990年10月5日)• NOW in Los Angels(1991年3月21日)• PINK EYED SOUL(1997年1月1日)• 再会 Pink Lady(1997年9月19日)• メモリアル・コンサートVol. 3 PINK LADY LAST TOUR Unforgettable Final Ovation(2005年8月25日)• (2006年7月28日)• ピンク・レディー IN 夜のヒットスタジオ〜フジテレビ秘蔵映像集〜(2011年5月27日)• CONCERT TOUR 2011 "INNOVATION"(2011年12月28日) DVD BOOK [ ]• (2004年7月8日)• (2004年8月31日) テレビ作品 [ ]• (第2期)() 1976年10月9日から1977年3月26日まで、毎週土曜23時45分から0時15分に放送していた、初レギュラー番組(他のレギュラーは・・)。 ピンク・レディーは第1期のと同じ役割だった。 放送は半年で終了するが、これがきっかけで、提供スポンサーののCMに出る様になる。 () に似せた人形が演じる人形劇。 ピンク・レディーは主題歌と劇中歌を担当し、顔出しでレギュラー出演していた。 劇中歌は持ち歌の替え歌が多かった。 () 1977年10月16日から1978年3月26日まで、2クール(23回)に渡り放映された、ドラマ形式のバラエティ。 かつてで放送された『』のオマージュ作品。 ピンク・レディーは自動車修理人役で主演。 (日本テレビ)• ディス・イズ・ピンク・レディー(東京12チャンネル)• 1978年10月24日から1979年6月26日に、東京12チャンネルで放送されたアニメ作品。 全34話および前夜祭1回と総集編2本からなる。 「本人達にあまりにも似ていない」と不評であったため、シリーズ途中でをやり直したという逸話がある。 (日本テレビ)• (TBS)• (テレビ朝日) 基本的には人形劇で、ピンク・レディーもモンピーと言う架空の動物着ぐるみの姿で登場する(イメージを似せて、本人たちが声を担当しているだけで、を担当しているわけではない)。 ゲスト・スターのコーナーでも、ゲスト・スター本人と着ぐるみが時々入れ替わる演出や、ピンク・レディーの持ち歌コーナーでは、本人と着ぐるみが共演して踊るといった演出が行われた。 (TBS) 1978年4月から9月まで放送。 『たまりまセブン』の流れを汲むドラマ・バラエティ。 ピンク・レディーは、扮する未来人「フェルメーテ」の実姉・ミーテ(ミー)とケーテ(ケイ)役でレギュラー出演。 (1978年12月31日、日本テレビ) それまで放送していた『』に代わって放送した、『』対抗番組。 ピンク・レディーはこの出演のため、『』の出場を辞退した。 (TBS) 『飛べ! 孫悟空』の後番組として、放送開始からしばらくの間はピンク・レディーが司会だったが、アメリカ進出の間の代役だったはずの(なお、伊東の前の司会役はだった)が結局そのまま司会の定位置におさまることとなった。 おなじみのフレーズ "Now Get the Chance! " も、ピンク・レディー司会の時代から引き続き使われていたものである。 (アメリカNBC)• Forever'84 Pink Lady~お元気でした?~(1984年9月9日、TBS) 渋谷公会堂での同窓会コンサートの模様を収録。 バックダンサーをが勤めた。 CM [ ]• ラブリーチョコ• アーモンドダン• チョコリロ• グリコしぐれ• めんくらべ• シャワラン トリートメントセブン• 金鳥蚊取りマット• ナショナル薄型ラジオ ペッパー• ナショナル電子制御エアコン クールクール• (歌唱のみ) 他多数 映画 [ ]• (1978年12月16日、)• (『』内で公開された24分作品の映画。 1979年3月17日、)• (1979年9月8日、) 絵本 [ ]• ひかりのくに ピンクレディー絵本 3 モンスター• ひかりのくに ピンクレディー絵本 4 透明人間• ひかりのくに ピンクレディー絵本 5 カメレオン・アーミー• ひかりのくに ピンクレディー絵本 6 ミラクル伝説 ジパング 脚注 [ ] []• なお小川も、へ起用を売り込んだ• それ以前にも、『』でが「勝手にシンドバッド」というギャグを披露している• スポニチ 2011年8月16日記事]• 2015年1月23日. 2015年3月3日閲覧。 『』1979年1月4日付夕刊、6頁、1979年1月6日付夕刊、7頁。 、、、、成松哲『バンド臨終図巻』、2010年、141頁。 『』1981年4月17日号、20頁。 - 2010年9月1日付、• 2010年9月10日, at the. - 2010年9月1日付、• 2017年12月18日 ハフィントンポスト• - ORICON NEWS 2019年6月28日(2019年6月29日閲覧)• - 貫泰夫のブログ、、• 』、2014年、87、90-92。 - 『ぶらりぶらり』 2009年4月28日付、 - 『ぶらりぶらり』 2008年12月付• 『』 1977年7月17日号、151 - 152頁、夕刊、1981年1月24日、7頁、、1978年1月22日号、111頁• 地方公演に行った際、驚異的な数の観衆が集まっているのを見て、初めて自分たちが爆発的な人気を得ていると実感したという。 当時の多忙ぶりを象徴するエピソードとして『』にゲスト出演した際、最後に出演者一同が布団に入り「お休みなさい」と言って番組終了を伝えるシーンで、演技ではなく本当に眠ってしまったことがある。 このようなファン層を意識して近年のツアーでは会場は全てオールスタンディング、キャパシティーに対して一人一人それぞれ肩がぶつからない程度のスペースを保てるように販売数が調整されており、客が振り付けを完コピして全員が一体となって踊りくるうというライブが繰り広げられている。 増田恵子著『あこがれ』(、)• 公園のベンチにいるカップルに「早く帰りなさい」と諭す巡査が主人公の歌。 「ペッパー警部」と同じビクターより発売• モールス符号による通信は、1999年に廃止されている。 「サウスポー 」として収録。 CMソングの「シャワランきらめきの夏」で一部分が使用されている。 (当時の)未発表曲をCMソングに流用していたことが伺える。 正式な発売日以前にフライング発売された分がオリコンに集計されたため。 解散コンサートでのアンコール前のラストナンバーは舟木一夫が1980年に発表した自作曲『グッド・バイ・ソング』のカバーだった(『舟木一夫の青春賛歌』2012年 産経新聞出版 P185・186、アルバム『さよならピンク・レディー』で『OH! 』の後に歌われているのが確認できる)。 実際に最後に唄ったのはレイフ・ギャレットの「ダンスに夢中(I was made for dancin')」である。 これは、当時発売のライヴ・アルバム『さよならピンク・レディー』にも、同時放送の時間内の中でも放映されず、収録されているのは現行ではVHSの『ピンク・レディーのすべて〜スター誕生からさよならピンク・レディーまで〜』だけである。 「S・O・S」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド 指名手配 」「2年目のジンクス」のメドレー• 「ペッパー警部」「UFO」「サウスポー」のメドレー• 「S・O・S」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド 指名手配 」「2年目のジンクス」のメドレー• 「ペッパー警部」「UFO」「サウスポー」のメドレー 関連項目 [ ]• - ユニットの名の由来になっているカクテル 外部リンク [ ]• - による公式サイト•

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ピンクレディー あなたはどちら派でしたか?(駄)

ピンク レディー ミー 年齢

ピンクレディーが解散したが気になる解散理由についての可能性を調査! ピンクレディーの解散の真相に関してははっきりしたことが分かっておりません。 真相不明ということです。 しかし全く何もわからないのか?というとそうでもないんですね。 この段落では分かっている情報を組み合わせてなんとなくそうなんじゃないかな?という憶測ですが(多分あっていると思います)まとめていきます。 ピンクレディーは紅白歌合戦を辞退して裏番組に出演したことで人気がなくなって解散したのではないか?つまりそれが解散理由なのではないか?という情報もありますが、僕的にはこれが解散理由ではないと思います。 実はピンクレディーの解散の裏側にはケイの熱愛交際が関係しているのではないか?ということが考えられます。 ケイは当時野口五郎と熱愛交際しており、そのことを事務所に話したら、事務所が熱愛交際に反対して所属事務所と関係が悪化したということが要因と考えられます。 また当時ピンクレディーはアメリカで活動していましたが、ミーはアメリカで活動しようと思っていたがケイは日本に帰りたかったという情報があります。 ケイは野口五郎に会いたかったんでしょうね。 ケイは野口五郎との結婚も視野に入れてピンクレディーをとるか?結婚をとるか?という選択を考えて野口五郎との結婚しようと思ってピンクレディーを解散しましたが、結局の野口五郎とは結婚しませんでした。 このことから実はケイはミーに今でも悪いなという気持ちを持っているのではないか?と言われています。 多くの人の心を揺らしたピンクレディというアイドルも乙女な面があり、やはりそのことがアイドルとしての活動の精神的な部分に関わっていたということがピンクレディーの解散理由の根本だと僕は思います。 もちろん真相は分かりません!ただし様々な情報をリサーチして分析するとこの可能性が高いのではないのかな?と僕は感じたということです。 そしてここからは気になるピンクレディーの現在について調べていきます。 実はいくつか気になる内容があるのでひとつずつ調べていきます。 ピンクレディーの現在の年齢は何歳なのかな? 実は多くの人がピンクレディの2人の現在の年齢が気になるようなので調べてみました。 まずケイですが、1957年生まれということが分かっていますので、今は63歳ということになります。 続いてミーですが1958年生まれということなので62歳ということになります。 そして気になるのがピンクレディーの2人は現在どうしているのか?ということについて調べていきます。 ピンクレディーは現在どうしているのか? ケイはピンクレディ解散後に音楽活動をしていましたが、最近はほとんどしていないようです。 プライベートで桑木知二と結婚して今現在も仲良し夫婦として過ごしているようですね。 このことからケイは芸能活動をほとんどしていないという感じだと思います。 続いてミーですがピンクレディ解散後もソロで音楽活動や女優として活動しています。 佃淳三という人とミーは結婚しましたが離婚しています。 そして最後にミーに関する気になる情報について触れていきます。 ピンクレディー・mieが鼻を整形したのではないか?という件について考察! ネット上では実はピンクレディーのミーことmieが鼻を整形したのではないか?ということがよく言われています。 ピンクレディ時代はおそらく鼻を整形していなかったと思います。 ピンクレディ解散後に鼻をいじった可能性が高いと思います。 おそらく鼻にプロテーゼをいれたんでしょうが、鼻のプロテーゼが浮いている感じで違和感を感じます。 もちろんmieが鼻を整形を整形した確証はありませんが、明らかに鼻の形がおかしいことから僕は(というか僕を含む多くの人は)鼻をいじったな?と思っているようです。 ということで今回はピンクレディの解散と関連する現在について調べて書いてみました。 ピンクレディーはすごく人気があったのでその後もいろいろと注目されて有名になりすぎるといろいろと大変なことがあるんだななんて僕は記事を書いていて感じました。 ということで今回の記事はここで終わりです。 最後までご覧いただきましてありがとうございました。

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