箱根 登山 鉄道。 箱根登山鉄道が7月下旬に再開 順調に復旧工事、運転見通しを前倒し

箱根登山鉄道の路線図

箱根 登山 鉄道

1888年。 1000人以上が従事した工事は容易なものではありませんでした。 しかし、作業員の前に次々と立ちはだかった大自然の厳しい難所を、数々の橋梁やトンネル、カーブをつくりながら、ひとつひとつ克服し、1903年チェレリーナまで、1904年サン・モリッツまで完成しました。 高さ65mの印象的なランドヴァッサー橋、ベルギューンからのプレダまでの約400mの高度差を調整する5つのループトンネル、ライン川とドナウ川の分水嶺でもあるアルブラ峠を越える長さ5866 mのアルブラトンネルなど、まさに鉄道技術の傑作といわれています。 1906年。 いよいよアルプスの懐深く走りイタリアへと抜けるベルニナ鉄道(現・レーティッシュ鉄道ベルニナ線)の工事がスタート。 ポントレジーナから氷河観光で人気のモルテラッチまでの区間、ポスキアーヴォからティラーノまでの区間が1908年7月に開通。 同年8月にチェレリーナ・シュターツからポントレジーナ、モルテラッチからベルニナ・スオートまで延長し、翌年サン・モリッツからの路線と最高地点オスピツィオ・ベルニナまでの区間が開通。 1910年に最後の難所オスピツィオ・ベルニナからポスキアーヴォまでの区間が完成し、全線開通となりました。 万年雪を冠った4000m級のベルニナ山群の名峰や氷河が輝くアルプスの世界から、葡萄畑や栗林に囲まれた素朴な谷を越えてイタリアまで。 高低差1824mを結ぶ絶景の連続です。 1907年。 海外漫遊から帰国した名士からスイスの登山鉄道の見聞が小田原電気鉄道に伝えられ、箱根の山に登山鉄道を通す計画が実現に向けて動き出しました。 敷設工事の調査・研究は1910年に開始。 当初は碓氷峠のアプト式ラック鉄道(歯軌条鉄道)を採用する計画で免許申請し、認可を得ましたが、敷設計画にはさらに研究の必要があるとして、1912年に主任技師長の半田貢氏が欧米へ派遣されました。 そして、スイスの登山鉄道を中心に視察してまわった結果、ベルニナ鉄道が最大70パーミルという勾配でありながら、歯車を使ったラック式ではなく通常のレールを使った鉄道(粘着式)という点に注目。 同じ景勝地を走る鉄道として、美しい自然を損なうことなく、できるだけ景観をいかして敷設するため、山肌をぬうように曲線を多用しての設計方針を取り入れました。 その後、変更計画を出願し、1913年に再認可をとり、1915年に着工。 大小31カ所の橋梁や12カ所のトンネルなどの難工事を経て、ついに1919年、箱根の登山鉄道が開通したのです。

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箱根登山鉄道 日本&スイス レーティッシュ鉄道姉妹鉄道提携35周年

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2019年東日本台風の影響で、本日も箱根湯本~強羅駅間の運転を見合わせ、バス振替輸送を行っています。 なお、7月23日に運転を再開する見込みです。 停車駅一覧• 乗換路線• 乗換路線 乗換路線はありません• 乗換路線 乗換路線はありません• 乗換路線 乗換路線はありません• 乗換路線 乗換路線はありません• 乗換路線 乗換路線はありません• 乗換路線 乗換路線はありません• 乗換路線 乗換路線はありません• 乗換路線 乗換路線はありません• 乗換路線 乗換路線はありません• 乗換路線.

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箱根登山鉄道 約9か月ぶり 来月全線で再開へ 神奈川 箱根町

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7 OH48 高16m 3. 1m 地蔵山隧道 長183. 1m 塔ノ峰隧道 長194. 1m 7. 1 OH52 高153m 大ヶ嶽隧道 長317. 9m 杉山隧道 長148. 9m 出山隧道 長124. 7m 松山隧道 長96. 6m 8. 3 高222m 嵐山隧道 長236. 5m 鐘山隧道 長89. 5m 常磐山隧道 長167. 0m 畑山隧道 長102. 6m 9. 9 OH53 高337m 10. 4 高346m 大平台隧道 長301. 9m 11. 2 高398m 12. 1 OH54 高436m 13. 4 OH55 高523m 14. 3 OH56 高539m 15. 0 OH57 高541m 軌間は現状を示す• 標準軌:1435mm• 狭軌:1067mm• 三線軌条:1435mmと1067mm 鉄道線(てつどうせん)は、のを起点とし、神奈川県のまでを結ぶのである。 で使われる路線記号は OH。 旅客案内上で正式名称が使われることはほとんどなく、対外的には「 箱根登山電車」の名が使われる。 メディアなどでは路線を指して会社名(箱根登山鉄道) のほか、「 箱根登山線 」「 箱根登山鉄道線 」とも呼ばれる。 最急80という、やに頼らない(普通鉄道)としては日本最急 のが存在する。 建設にあたってのベルニナ鉄道(その後の)を参考にしており 、その縁でに、箱根登山鉄道とレーティッシュ鉄道は、の協力を得て姉妹鉄道提携を結んでいる。 概要 [ ] 日本国外を外遊した名士からの提案を契機として 1919年に開業した鉄道路線である。 当初はと強羅駅の間を結ぶ路線で 、箱根湯本駅まではが接続していたが、1935年に小田原駅発着となった。 箱根登山鉄道はの一社で 、1950年以降は箱根湯本駅までの列車が乗り入れている。 日本の粘着式鉄道では最急の勾配や急カーブ、などがあるで、「日本唯一の(本格的な)登山電車」とも紹介されることがある。 特徴 [ ] 本路線は、以下のような数々の特徴を有する。 勾配 [ ] 箱根湯本駅との間には、80という日本の粘着式鉄道では最急となる勾配が存在する。 57度である。 1両の全長が14. 17mほどの高低差がつく。 建設当時の時点において日本における最急勾配だったのはの66. 曲線半径 [ ] との間 、小涌谷駅との間 には、半径30mという急な曲線が存在する。 これはで後述するように、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられており 、しかも脈に悪影響を与えるという理由で掘削ができなくなった 区間もあり、山肌に沿った急曲線で軌道を敷設するしか方法がなかったためである。 半径30mの曲線上では、3両編成の登山電車の先頭と最後部の車両の向きは60度ほどの角度がつく。 日本の普通鉄道において、本線上で半径30mもの急曲線が設定されている事例は、や以外にはほとんどない。 三線軌条 [ ] と箱根湯本駅の間には、国際の1,435mm・の1,067mmという異なるにおいて、片側のレールを共用するが存在する。 これはするように、狭軌を採用している小田急の電車が、標準軌の本路線に乗り入れるために考えられた方法で 、乗り入れ当初は小田原駅から箱根湯本駅までの区間に三線軌条が採用された。 これは片側のレールを共用し、もう片側には2本のレールを並べて敷設するもので、も複雑な構造となった。 狭軌と標準軌の双方の列車密度や分岐器の数などを考慮すると、世界的に見ても本路線を上回るものはなく 、(JR東日本)では運行のためにの一部区間で三線軌条を導入するのに先立って本路線の設備を視察し、分岐器の構造などについて学んでいる。 しかし、輸送力の違いや化対応などの理由により 、2006年以降、車庫のある入生田駅と箱根湯本駅以外の区間については三線軌条は解消された。 歴史 [ ] 建設の経緯 [ ] 箱根に登山電車を走らせる計画は、に設立された箱根遊覧鉄道が路線免許を出願するなどの動きがあった が、計画が具体化するのは、1900年にと湯本を結ぶの路線(を参照)を開業した小田原電気鉄道に対して、同年5月23日付けでから「路線を当村まで延長して欲しい」という路線延長の要請を受けたときからである。 小田原電気鉄道ではこの要望に前向きに対処し、同年9月までに「箱根遊覧鉄道の創立に要した費用を負担した上で、路線自体は小田原電気鉄道の延長線として敷設する」という方向性をまとめた が、同年9月の臨時株主総会では否決されてしまった。 登山電車の建設計画が再び具体化するのは1907年、におけるの実況を視察した者 から、「スイスを範として、箱根に登山鉄道を建設すべき」という手紙が小田原電気鉄道に対して送られてきたことがきっかけとなる。 また、やなどの実業家もこの事業を小田原電気鉄道に勧告した ことを受け、1910年1月の臨時株主総会において、からへ路線を延長することが決定した。 同年4月には路線延長を出願し、さらに翌月には強羅駅からを経てのへの延伸計画を追加し 、3月1日に登山鉄道建設の免許が交付された が、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられた。 度重なるルート変更 [ ] と箱根登山鉄道各線の衛星写真。 水色が箱根ロープウェイ、赤が 鉄道線、橙が鋼索線。 当初の免許では、の右岸を遡り、須雲川集落から北上してへ抜け、からトンネルを2つ掘って強羅駅に行くという、総延長が約13kmになるルートであった が、この時期に軌道線がの洪水によって軌道が流失してしまい 、ルート変更を余儀なくされた ため、登山鉄道のルートも再検討することとなった。 そこで、1911年5月にはまでは早川の左岸を進み 、塔ノ沢駅の先で早川を渡り大平台駅に至るルートに変更された。 このルート案では、が2両を牽引することになっていて、最急の勾配が125の鉄道とする計画で 、湯本から強羅までの距離は7. 1kmほどとなるルート設定であった が、当時既に最急勾配が66. また、自然を破壊し景観が損なわれるという懸念もあった ため、再度検討することになり、1912年7月に主任技師長の半田貢をに派遣した。 建設工事は半田の帰国を待たずに1912年11月に一部が開始されていた が、すぐに中断となり、1913年3月に計画・設計の変更届けを鉄道院に提出した。 この計画・設計の変更は、当時日本国内において前例のない急勾配を有する鉄道計画でありながら同年6月には認められているが 、半田の調査報告書などでベルニナ鉄道のブレーキ試験結果なども添付されていたため、その報告書を鵜呑みにするしかなかったと推測されている。 難工事・運行開始 [ ] 建設中の出山信号場 こうして、ようやく建設は開始された。 ところが、にが勃発した影響で、計画していた資材の輸入が途絶 、建設工事にも影響を及ぼした。 の建設に当たってはの橋梁の鋼体の払い下げを受けることになった が、景観破壊の恐れがあるとからクレームが入り 、改築を条件にしてようやく認められた。 この早川橋梁の架設工事が終了したのは1917年5月31日で 、1915年に架橋工事が開始されてから 2年近くかかっており、もっとも難航を極めた工事とされている。 車両についても、当初はスイスから輸入する予定であったが実現せず 、製の車両を購入することになった。 さらに、1916年に行われた地質調査では、宮ノ下駅から二ノ平駅までの区間にトンネルを掘削することによって、蛇骨川の温泉脈に悪影響を与えることが判明した。 山を切り崩すこともできず、トンネル掘削もできない状況では、山肌に沿って軌道を敷設するしか方法はなく 、仕方なく遠回りのルートに変更された。 当初計画になかったは、この時に開設が決まった。 震災により崩壊した杉山トンネル。 手前のトラスは早川橋梁 9月1日に発生した()で、鉄道線は甚大な被害を蒙った。 箱根湯本駅では裏山が崩れて構内が埋没する など、軌道は大部分が崩壊または埋没し 、建造物も半数近くが半壊 、ほとんどのトンネルも入口部分が崩壊した。 橋梁は1箇所を除いて全て破壊されてしまった が、最も心配されていた早川橋梁だけは橋台の軽微な損傷 とわずかにずれた程度で、被害を免れた。 7両あった登山電車も全て脱線転覆や埋没してしまったが、焼失した車両はなかった。 早期復旧は不可能であったため、同年中に復旧の準備を整え、翌1924年1月から復旧工事が開始された。 復旧工事も難工事で、運行が再開されたのは、箱根湯本駅 - 出山仮停留場間が同年9月10日 、出山仮停留場 - 大平台駅間、小涌谷駅 - 強羅駅間が11月24日 、宮ノ下駅 - 小涌谷駅間が12月24日 、そして大平台駅 - 宮ノ下駅間が12月28日であった。 震災の被害から復帰した後の1月16日には、小涌谷を発車した登山電車が宮ノ下付近でカーブで脱線して民家に転落するというが発生した。 運転士は生存していたものの、精神に異常をきたしたため事故原因は明らかにならなかった が、速度制御に失敗したものとみられている。 この事故の後しばらくした1928年1月に、小田原電気鉄道はいったんに合併した 後、同年8月に再度 箱根登山鉄道として分社化された。 登山電車が小田原へ乗り入れ [ ] 日本電力傘下となってから、小田原から強羅まで鉄道線を直通運転する計画が実行に移された。 この計画では小田原からまでは軌道線とは別に線路を敷設し、風祭から箱根湯本までは専用軌道だった軌道線を改修するというものであった。 板橋陸橋での試運転 4月1日にを起点とする(小田急)がまで開通した ことを受けて、箱根登山鉄道では小田原駅構内への登山電車乗り入れを申請 、1930年には小田急との連絡について協定を結んだ。 1931年11月から風祭と箱根湯本を結ぶ区間の改修工事を行い 、小田原駅への乗り入れが認められた1934年からは小田原と風祭を結ぶ区間の工事にも着手 、1935年9月21日にすべての工事が完了した。 小田原駅構内への乗り入れに際しては、小田急の多大な協力が得られたとされている。 これと並行して、直通運転の開始後に予想される乗客増への対応策として、2両編成での運転についても検討が進められることになった。 そこで、に連結器についての指導を仰いだ結果 、の設計による連結器の試作が実現した。 数か月にわたり連結での試運転を行い、安全性も確認されたため 、の連結器を全て交換した。 こうして、同年10月1日より小田原駅と強羅駅の間において、登山電車の直通運転が開始された。 これによって、小田原と強羅は最短50分で結ばれるようになり 、箱根湯本駅で軌道線と乗り換えていた当時より20分の時間短縮が実現した。 に入ってからは、1942年5月30日付でが社長に就任する などの出来事はあったが、鉄道線には大きな動きはなく、戦災による被害もほとんどなかった。 終戦後しばらくの間、登山電車のうち2両がとなった。 1948年9月15日にはが上陸したことに伴い、鉄道線の橋梁2箇所が流失 、それ以外にも土砂の崩壊による軌道の埋没などがあり 、復旧は翌1949年7月6日までずれ込んだ。 小田急が箱根湯本へ乗り入れ [ ] これより少し遡る1946年には東京急行電鉄()が策定した『鉄軌道復興3カ年計画』の中には、東急小田原線(当時)の箱根湯本駅への乗り入れ計画が含まれていた。 1948年6月1日に大東急から分離独立した小田急電鉄(小田急)では、同年10月よりノンストップの運行を開始していた が、競合路線である東海道本線に対抗するには箱根湯本駅まで直通すべきと考え 、この乗り入れ計画を推進することになった。 しかし、この乗り入れには解決すべき問題点がいくつもあった。 三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造 鉄道線のは国際的な標準である1,435mmであった が、乗り入れてくる小田急の軌間はそれより狭い1,067mmであった。 また、小田急を1,435mmに改軌するのは、車両数が多いうえ距離も相当なものとなってしまうため、膨大な費用が必要で 、まだ戦後の復興途上においてはそのような負担は無理であった 上、との貨物輸送においての直通が不可能となり 、貨物収入が激減してしまうことになる。 そこで、鉄道線のレールの内側に小田急の車両のためにもう1本レールを敷設するを採用することとなった。 なお、共用するレールについては山側(小田原駅を発車すると進行方向右側)とされた が、これは万が一小田急の電車が脱線を起こした場合に、外側の登山電車のレールに引っかかることによって、海側(進行方向左側、が並走)への転落を防ぐためである。 通常のは可動箇所が2箇所である が、三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造となり 、当初は手動でによって切り替えを行っていた が、1人では梃子が重くて動かせず、梃子に綱をつけて2人がかりで引っ張ったという。 その後、分岐器の切り替えは電動化された。 小田急(軌間1,067mm)と箱根登山(軌間1,435mm)の車両規格の相違。 片側のレールを共用すると、車体の位置がこれだけずれてしまう 三線軌条の導入によって、問題になったのは車両のであった。 登山電車は前述の通り特殊な連結器であったが、当時の小田急ではを使用していた。 通常ならアダプターの役割を果たすを介して非常時の連結に備えることになる が、三線軌条では軌道中心と車体中心がずれるために、仮に連結器を統一したとしても連結ができない。 このため、非常時に他の車両による牽引が必要な場合は、もっとも近くにいる同じ会社の車両を救援車両として連結することになった。 車体中心のずれは駅のと車両の間にも影響し 、特に小田急の車両では台枠面での車体幅が2,800mmであるのに対し 、登山電車の車体幅は2,520mmと狭い ことから、線路を共用する側にプラットホームがある場合、登山電車では30cm以上の隙間ができてしまうことになった。 また、鉄道線の架線電圧は当時600Vであった が、乗り入れてくる小田急の架線電圧は直流1,500Vであった ため、小田急の車両が乗り入れる区間では架線電圧を直流1,500Vに昇圧し 、箱根湯本駅構内にはが設置され 、登山電車には複電圧に対応する装置が設けられることになった。 ただし、これによって直流600Vのままの軌道線へは直接給電ができなくなり 、箱根湯本駅から送電線による給電をせざるをえなくなった。 その上、軌道条件も異なっていた。 そのような勾配が1km以上も続くため、小田急の車両のブレーキ装置についても考慮しなければならなかった。 このため、小田急ではブレーキ装置に改良を施工した車両のみを乗り入れさせることになった。 このほか、に設備を新設した ほか、乗り入れ区間にあるトンネルや鉄橋なども検討が重ねられた。 技術的な問題のほかに、経理上の問題も発生した。 レールを1本増設することによって資産が増加することになるが、どちらの会社の資産として扱うかという問題が生じた。 これについては、箱根登山鉄道の施設を利用する代価として、対応する費用については小田急が負担することになった。 これらの問題点を解決しつつ、対応を進めていった。 とのによって車両関係の改造が遅れるという障害もあった が、8月1日より小田急電車の乗り入れが開始された。 乗り入れ当日は箱根湯本駅前には小田急の乗り入れ開始を祝してが飾られ 、小田急の電車が到着すると花火まで打ち上げられた。 1964年にはそれまで箱根湯本駅に併設されていた車庫を入生田駅に隣接する場所に移設 、1972年には が導入された。 1972年3月15日には最寄の二ノ平駅がに改称された。 1980年からは小田急の直通列車の大型化に対応した改良工事が開始され 、1982年7月12日からは小田急から直通する急行列車は全長20mの車両による6両編成に増強された。 登山電車の3両編成化 [ ] 登山電車に乗ろうとする人たちの長蛇の列(1993年のゴールデンウィーク) 鉄道線を利用する観光客は増加し、1991年には年間輸送人員が1千万人を超えた。 当時の登山電車は2両で15分間隔が最大の輸送力であり 、や箱根が開催される11月などは登山電車に乗るのに2時間待ちという状況となっていた。 しかし、特有の線路条件から増発はできないため、列車を最大3両編成にすることが決定した。 鉄道線の箱根湯本駅から強羅駅までの各駅は開業以来2両編成に対応した設備となっており、全駅においてホーム延伸対応工事が実施された。 最も難工事だったのはの工事で、駅の両側がトンネルに囲まれ、開業当時から強羅側の分岐器がトンネル内に設置されている状況で 、しかも駅へ通じる道は細い人道があるだけで 、工事にあたって大型機械を導入することはできなかった。 このため、小田原側のトンネル拡幅はほぼ全てを手掘りで施工することになり 、文字通りでの工事を余儀なくされた。 塔ノ沢駅の工事だけで、総工費20億円のうちの半分近くが費やされた。 これ以外にも、の増強や 、架線電圧を600Vから750Vへ昇圧 、一部車両の2両固定編成化などが行われた。 塔ノ沢駅の工事が予定より早く終了したため 、当初は1993年10月からを予定していた3両編成化の日程は繰り上がり、同年7月14日から3両編成での運行が開始された。 三線軌条区間の縮小 [ ] 2006年以降は小田原駅と箱根湯本駅の間は小田急の車両のみとなった しかし、箱根湯本駅まで乗り入れてくる小田急の電車は20m級の車両が最大6両編成であるのに対して、登山電車の1列車の輸送力は全長15m級の3両編成が最大で、輸送力が小さかった。 このため、1995年以降、ゴールデンウィークなど特に多客が予想される日には日中の登山電車を全て箱根湯本駅と強羅駅の間でのみ運行し、小田原駅と箱根湯本駅の間は小田急の車両で6両編成の各駅停車を運行する措置もとられていた。 また、各駅での乗車位置も小田急の車両と登山電車では異なる 上、途中のではホーム長が短いために、小田急の車両ではを使用して手動で扉を開ける (ホームにかからない車両の扉は開けない、いわゆる)という状態であった。 さらに対応にも問題が生じた。 小田急の車両と登山電車では車体規格が異なる上、三線軌条ではそれぞれの車両の中心もずれるため、に抵触する可能性も出てきた。 こうした事情から、まず2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を倍増させ 、代わりに小田原駅と箱根湯本駅の間を運行する登山電車は朝夕のみとなった。 さらに、2006年3月18日のダイヤ改正では、小田原駅と箱根湯本駅の間の列車は全て小田急の車両に置き換えられることになった。 これ以後、小田原駅と入生田駅の間の三線軌条は順次撤去された が、入生田駅には登山電車の車庫があるため、入生田駅と箱根湯本駅の間のみ三線軌条が残された。 2008年3月15日のダイヤ改正からは、風祭駅の改良工事完了によりドアカットが解消されたほか 、小田急の車両は以外は4両編成での運行となった。 なお、大きな被害をもたらした(2011年)以来、小田原市内では表示が随所に表示されるようになった が、箱根登山鉄道が公表していた数値と異なることが問題となり、2013年11月に修正されることになった ()。 2019年10月13日、(台風19号)により大平台駅 - 小涌谷駅間を中心に土砂流入や橋脚流失など甚大な被害を受け、箱根湯本駅 - 強羅駅間が長期不通となった。 箱根登山鉄道は同年11月22日に同区間の運転再開を2020年秋頃の見通しと発表したが 、後に2020年7月下旬に前倒しすると発表した。 運行形態 [ ] 軌道条件 [ ] 半径30mの急カーブ 箱根湯本駅 - 強羅駅間は、との間の粘着力だけで走る鉄道としては日本で最も急な勾配 80 を登る。 この区間に3か所(・・)あるも山岳鉄道的な特徴である。 このほか、カーブの最小半径も30mと小さい。 全線が単線で、軌条(レール)は小田原駅 - 箱根湯本駅間が50レール であるが、箱根湯本駅 - 強羅駅間では長さ10m の37kgレール を使用している。 37kgレールを使用している理由は、途中のトンネル内で50kgレールを使用すると高さ方向の限界を支障すること 、通過トン数にも十分対応している といった理由が挙げられている。 運行体制 [ ] 運行開始当時は、箱根湯本駅 - 強羅駅間には片道27本の列車が設定されており 、軌道線の市内電車との接続が図られていた。 戦後の1950年に小田急の電車が直通運転を開始した際には、小田急の乗り入れ電車はが3往復とが7往復であった。 その後増発され、1959年の時点では日中は特急が最大11往復 、日中の急行は30分間隔での運転で 、これに登山電車が接続していた。 その後、1982年時点においては、小田原駅 - 箱根湯本駅間では小田原駅 - 強羅駅間を直通する登山電車が1時間あたり2本 、これにから乗り入れてくると急行がそれぞれ1時間あたり2本ずつとなっており 、箱根湯本駅 - 強羅駅間ではこの区間を往復する列車が1時間あたり2本設定されており 、小田原駅発着の直通電車とあわせて1時間あたり4本という運行形態であった。 しかし、登山電車は小型の車両で輸送力にやや難があったため 、1990年3月ダイヤ改正では小田急の車両で運行する小田原駅発の箱根湯本駅行きが設定された。 さらに、2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を運行本数は1時間あたり2本から4本に倍増 、箱根登山鉄道の車両は日中は小田原駅 - 箱根湯本駅間を走らなくなった。 さらに、2006年3月18日改正では、小田原駅 - 箱根湯本駅間の旅客列車をすべて小田急の車両に置き換えた。 これによって小田原駅 - 入生田駅間は自社の車両が全く走らない区間となった。 2012年3月17日のダイヤ改正からは、小田原駅 - 箱根湯本駅間の折り返し運転のが1時間あたり4本 、小田急小田原線・方面から特急ロマンスカーが1時間あたり2本 という運行体制が基本となった。 箱根湯本駅 - 強羅駅間は、日中1時間あたり4本で運行される。 この他に夜間に着が各停として設定されている。 以前は朝夕に発着や平日のみ本厚木駅発も設定されていたが、2018年3月17日のダイヤ改正で廃止となった。 なお、同改正での本厚木駅着は平日のみだったが、2019年3月16日以降は土休日も設定されるようになった。 箱根駅伝への対応 [ ] 風祭から箱根湯本ゆき乗車券。 このような短い区間であっても、2日間有効で途中下車可能だった。 に隣接する小涌谷踏切はのコースとなっていて、出場選手や大会関係車両が通過する。 これに対応して、開催日の1月2日(往路)昼頃と1月3日(復路)午前8時台はに係員を待機させ 、選手や大会関係車両の通過時には電車を踏切手前で停止させる。 これは選手が踏切で足止めされ、をくぐって電車の前に飛び出すという出来事があってから始められた措置である。 乗車券・座席券 [ ] 鉄道線の開業当初より 、線内の乗車券は片道でも2日間有効で可能であった が、2002年4月1日よりこの取り扱いは廃止され 、片道乗車券は他の多くの路線同様通用発売当日限り・下車前途無効に変更された。 特急ロマンスカーについては、小田急との通し利用のほか、当日空席がある場合に限り小田原駅・箱根湯本駅のホームにおいて発売する座席券(大人200円・小人100円)を購入することで小田原 - 箱根湯本間のみの利用も可能である。 2005年9月30日までは箱根登山鉄道の料金が設定されていなかったため、小田原 - 箱根湯本間のみの利用はできなかった。 小田急との通し利用については両社の料金を合算する(2018年3月16日までは小田急が箱根登山鉄道の座席料金に相当する額を割り引いていた )。 1994年から運行する「夜のあじさい号」は全車指定席であり、専用の座席券が必要となる。 運賃 [ ] 鉄道線大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。 ・運賃同額。 2019年10月1日改定。 箱根登山鉄道ではこの区間を「平坦線」と称しており 、空を見上げるような急勾配で初めて山を登る気分になっていたという が、それでも一般の鉄道と比較すると厳しい条件である。 箱根湯本駅までの区間の沿線には集落が連なる。 箱根湯本駅から強羅駅まで8. 9kmの区間のうち、半分近い4. この区間では大半の区間で樹木に囲まれており 、夏季には並走するからでさえも電車の姿は見えなくなる。 小田原 - 箱根湯本 [ ] 小田原駅 - 箱根板橋駅間の半径160mの急カーブ(2009年3月17日) 標高14mの小田原駅を発車した列車は、しばらくJRと並行して南に下る。 この下り勾配を下りきっての高架橋をくぐる と標高36mのである。 風祭駅を過ぎると最大28. 入生田駅を発車するとほどなくするとに入るが、38. この間に、進行方向右側の斜面に送水管が見える が、この送水管は登山鉄道開業のために建設された三枚橋発電所への水路で 、発電所自体はその後東京電力に移管されている。 勾配が緩くなり、国道1号から箱根旧街道が分かれるのを見つつ、標高96mの箱根湯本駅に到着する。 車内でもが斜めになっていることが分かる。 3番目のトンネルを抜けると 標高153mの に到着する。 上りホームの片隅にはがある。 塔ノ沢駅を発車すると箱根登山鉄道では最長のトンネル 317. トンネルの出口はかなり上の方にあり 、井戸の底から空を見上げるようにも見え 、この電車が登れるのかと驚く人もいる。 次の杉山隧道を抜けるとで深さ43mの谷を渡る。 ここで左下を見ると、先ほど渡った早川橋梁が眼下に見える。 早川橋梁と出山信号場は直線距離で500mも離れていない。 3kmほども続く。 出山信号場から大平台駅までの1. 6kmで、一気に115mも高度を上げたことになる。 大平台 - 強羅 [ ] の敷地の脇を通る登山電車 大平台はスイッチバック駅のため、また進行方向が変わる。 強羅行きの電車にとっては最後のトンネルとなる大平台隧道を抜けると 、標高398mのである。 仙人台からは再び国道1号と並行する が、この辺りでは随所に半径30mから40m程度の急カーブが連続する。 3両編成の列車(全長44m)の場合、先頭車と後尾車では最大で60度近い角度の差がつく。 ホームの向こうにはが一望できる。 ここから先の区間では本来はトンネルで抜けるところを、温泉脈に悪影響を与えないように地形に逆らわないルート設定となった。 では選手の通過時にこの踏切の手前で電車を停車させる。 踏切を過ぎるとまもなく標高523mのである。 小涌谷駅を発車すると、山肌に沿って半径30mの左カーブと右カーブが連続する。 これも地形に逆らわないルート設定の結果である。 の敷地の脇を通りぬけ 、標高539mのに到着である。 ここから先はほとんど平坦な線形で 、地獄澤橋梁を渡ると ほどなく標高541mのに到着する。 スイッチバックが3回あったため、箱根湯本駅を出発した時とは進行方向が逆になった状態での到着である。 あじさい電車 [ ] 線路沿いにはあじさいが植えられている 沿線の線路沿いには1万株以上のが植えられている。 これは、元来は土止めの目的で植えられたもので 、開業当時には存在しなかったものである。 しかし、沿線には車窓の開ける場所があまりないことから、季節ごとに車窓から花を楽しめるようにするため 、箱根登山鉄道社員の手で植えられたものである。 紫陽花の花が見頃となる6月中旬から7月中旬にかけては、登山電車は「あじさい電車」とも呼ばれるようになり 、1975年頃からは社内で「沿線美化委員会」が構成され、紫陽花が見頃になる前の時期に下刈りをするなどの勤労奉仕が行われている。 1981年11月には「全国花いっぱい『花と緑の駅』コンクール」において長官賞を受賞した。 1990年代からは夜間に紫陽花のも行われており 、定期列車よりもゆっくりあじさいを鑑賞するための専用列車として、の「夜のあじさい電車」も運行されるようになった。 車両 [ ] 登山電車の特徴 [ ] 箱根湯本駅 - 強羅駅の区間は、最大80の急勾配と地形に沿った非常に急なカーブを持つ路線を走るため、電車は以下のように特殊な仕様となっている。 ブレーキ [ ] レール圧着ブレーキ [ ] として設けられているもので 、空気圧により作動し台車からのブレーキシューをレールに押付け圧着させるブレーキである。 通常の鉄道車両では車輪とレールは点または線による接触である が、このブレーキを使用した場合はわずかに車両が持ち上げられ、カーボランダムシューとレールの面接触によって ブレーキが作動する仕組みである。 レールに使用される鋼とカーボランダムの(数字が大きいほど摩擦が大きい)は、乾燥した状態で0. 30 、撒水した状態では0. 42である。 これは鋼同士、つまり車輪とレールの静止摩擦係数が乾燥時で0. 15 、撒水時で0. 123 であるのと比べると2倍から3倍もの差がついており 、大きな摩擦力が働くことが分かる。 開業時の1919年に導入されたでは電磁吸着ブレーキを装備していたが、その後1927年に増備されたチキ2形からはカーボランダムを使用したブレーキを採用した。 その後、電磁吸着ブレーキは一度滑走が始まると効果がなくなるため 、全車両がレール圧着ブレーキに統一された。 一時期はカーボランダムの代わりにが使用されたことがある。 踏面ブレーキ [ ] 常用ブレーキのについては、鉄道線の車両では制輪子が使用されている。 これは、合成制輪子よりも鋳鉄制輪子の方が車輪の踏面が荒れる ため、高い粘着力を確保できるという理由である。 撒水装置 [ ] 終点で給水を行なう電車 鉄道車両においては、レールが車輪を誘導することによって曲線を通過させる仕組みとなっているが、この結果としてカーブ外側のレールに強い力がかかることになる。 レールと車輪では車輪の方が硬く 、レールの磨耗が発生するため、これを防ぐ必要があり、通常の鉄道ではレールの頭部側面に塗油したり 、台車側に塗油器を設けることによってレールの磨耗を抑える。 しかし、急勾配線区においては塗油することによってレールと車輪の摩擦係数が低下して上り勾配でのや下り勾配でのが発生し 、極めて危険な状態となる。 そこで、カーブではレールと車輪の間に撒水することによって磨耗を防ぐこととした。 このため、各車両とも車両の両端部に容量360の水タンクを設け 、運転士の操作によって水を車輪の踏面に撒水する装置を装備している。 片道1回の運行でおよそ50Lから80Lの水を消費する。 開業当時のチキ1形には撒水装置がなかったため、レール交換が多く繰り返されたという。 このため、チキ1形では屋根上に水タンクを設けた が、1927年に増備されたチキ2形以降の車両では連結器の下に水タンクを設置した。 なお、開業当初は粘着力を増す目的で全車両の台車にを設けていた が、撒水したところに砂を撒くことによってレールの磨耗が激しくなったため 、撒砂装置は後年、全て撤去されている。 連結器 [ ] 開業当時に製造されたチキ1形ではを装備しており 、1927年に登場したチキ2形ではを装備していた。 しかし、登山電車の急勾配や急カーブには対応しておらず、1935年に登山電車用の連結器が開発される までは、連結して運用されることはなかった。 この登山電車用の連結器では、急勾配や急カーブで連結器が外れる事を防止するため 、上下左右に大きく振れる構造となっている。 ただし、「」の編成中間部では半永久連結器が使用されている。 また、連結器の突き出し部分は長くとられており 、連結面間距離においても通常の20mの通勤電車で500mm程度なのに対して 、「ベルニナ号」では860mmも空いている。 なお、車両間のは非常用であり 、貫通幌も設置されておらず 、通常は施錠されている。 大容量抵抗器 [ ] 電車の走行・ブレーキに使用するは下り坂でので使用の際に大量の熱が発生するため、冷却しやすいように屋根上に搭載している。 開業当時のチキ1形では床下に抵抗器を設けていた が、1927年に導入されたチキ2形では屋根上にニクロム合金製の抵抗器を設けた。 その後、旅客車両では全て屋根上に抵抗器を搭載している。 車両各説 [ ] 自社車両 [ ] 現有車両 [ ] 1919年の開業当時に7両が製造された。 電装品と台車はアメリカ製 、車体はによる木造車体である で、全車両が車両中央に手荷物室を設けていた。 1926年にチキ5がにより廃車。 1934年にはチキ1・チキ2・チキ6・チキ7の4両が荷物室を撤去し 、荷物室が残った車両はチキテ1形に称号変更を行いチキテ3・チキテ4となる。 1950年に全車両について車体の鋼体化と複電圧化改造が行われ、同年に全車両がモハ1形に称号変更 、番号は元の番号に100を加算しモハ101〜104・106・107となった。 その後、1993年の3両編成化に伴い全車両が片側の運転台を撤去して2両固定編成化。 2002年に101-102編成が廃車。 2019年7月には箱根登山鉄道最後のの103-107編成が廃車となり、残るはの104-106編成のみとなった。 1927年に3両が製造された。 電装品と台車はスイス製 、車体は日本車輌製造による木造車体である で、番号はチキ1形に続いてチキ8からチキ10とされた。 1934年にはチキ8・10の4両が荷物室を撤去し 、荷物室が残った車両はチキテ2形に称号変更を行いチキテ9となる。 1935年には保管されていた電装品と台車を使用し、の鋼製車体を架装したチキ111・チキ112が増備された。 1950年に複電圧化改造と同時期に称号変更が行われモハ2形・モハニ2形となり 、モハ8・モハニ9・モハ10は元の番号に100を加算した。 1955年から1957年にかけて木造車体の車両については鋼体化が行われ 、同時に全車両ともモハ2形に揃えられモハ108〜112となった。 1991年に2両(モハ111・112)が廃車 、2017年にもモハ110が廃車となり 、残るは108・109号のみである。 約45年ぶりとなる新型車両として1981年に登場 、には1編成が増備 、2004年には冷房改造と同時に後述する「サン・モリッツ号」の中間車を組み込んで3両編成となった。 第25回受賞車両。 登山電車では初の冷房車として1989年に登場。 1991年に1編成が増備され 、1993年には3両編成化のため中間車2両を増備 、1997年には3両編成1編成が増備された。 2004年には2編成が2両編成となり 、捻出された中間車は前述の「ベルニナ号」に組み込まれた。 箱根登山鉄道では初の車両となるほか、・LED照明を採用する。 デザイン設計はに依頼。 2014年4月14日に最初の車両が入線 、2014年11月1日より運行を開始した。 2000系の増結用として2014年に2両が製造され 、その後も旧型車両の置き換えのために導入が進められる予定。 2016年12月5日には、3000形を片運転台・2両固定編成に設計変更した3100形を1編成導入することが発表され 、2017年5月15日より運行を開始した。 1975年に製造された荷物電車。 過去の車両 [ ] 1935年に川崎車両で3両が製造された。 電装品・台車も日本製で 、当初より番号はチキ113からチキ115となっている。 1984年に2両が廃車 、1997年に残る1両も廃車となり全廃。 開業より早い1916年に2両が製造された電動無蓋貨車 で、建設時から資材輸送に使用されていた。 1952年に1両が廃車された が、その後も1両が車庫での入換用に残されていた。 1992年に全廃。 1921年に2両が製造された電動有蓋貨車 で、箱根の旅館で使用する食材や資材などの運搬に使用されていた。 1952年に1両が廃車された が、その後も保線用に残されていた。 1976年に全廃。 乗り入れ車両 [ ] 小田原 - 箱根湯本間の各駅停車に使用される、登山電車カラーの 1950年以降に小田急の電車が乗り入れた当初は、小田急から乗り入れてくる車両は・などの30両に限定されていた。 これは小田急の線路条件を上回る勾配に対応するため、ブレーキ装置に改良を施した車両に限定したためである。 その後 や・なども乗り入れるようになった。 その後、1982年頃までは小田急の乗り入れ車両は、通勤車両はに限定されるようになった。 これは乗り入れ区間の3駅のホームの長さが短かったためであった が、1982年7月からは・などの大型車両も6両編成で乗り入れるようになった。 ただし、しばらくの間は特急車両以外の乗り入れ車両は側面窓が一段下降窓の車両に限定された。 2000年頃には側面窓が二段上昇窓となっている小田急の電車も下段の窓から手が出せないように対策を行い 、通勤車両は6両編成までなら全ての形式が乗り入れ可能となった。 2008年3月15日のダイヤ改正からは、小田急の車両は特急車両以外は4両編成の車両のみが乗り入れている。 同年3月17日のダイヤ改正以降、小田原 - 箱根湯本間の各駅停車はこの4編成に限定して運用されている。 なお、特急車両については、以降の全ての特急車両が乗り入れている。 データ [ ] 駅一覧 [ ] 1985年時点で、箱根登山鉄道が公表していると、の地図に記載されている標高は異なっていた。 これは、箱根登山鉄道の建設時の測量の際のが異なるためであった。 しかし、東日本大震災の後に小田原市内各所で表示が行われた際に、駅前の標高表示と駅名標で数値が異なるとの指摘を受けて標高を再調査したところ、2013年7月に全ての駅で数値が異なっていたことが判明したため、同年11月に各駅の表示を修正することになった。 下表の標高は修正後の数値である。 は、2014年1月より順次導入。 小田急小田原線新宿駅からの通し番号となっている。 全駅に所在。 入生田駅 - 箱根湯本駅間は、軌間1,067mm(狭軌)と軌間1,435mm(標準軌)の三線軌条区間。 箱根湯本駅で運転系統が分離されているため、箱根湯本駅を跨ぐ区間を乗車する場合は乗り換えが必要となる。 各駅停車は省略(全旅客駅に停車)。 7 1. 5 3. 0 4. 9 6. 0 7. 2 8. 6 9. 5 10. 8 11. 9 12. 3 13. 9 14. 3 * OH57 541 0. 7 15. 箱根湯本駅:(1919 - 1935年)• 箱根板橋駅:(1935 - 1956年) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• にある半径28mのカーブが普通鉄道最小半径である。 「であったことは間違いない」と推測されている。 1mあたりの重さが50kgのレール。 1mあたりの重さが37kgのレール。 1919年8月20日改正の時刻表で確認できる。 1925年3月22日発行の乗車券で、「通用発行日共二日間」という表記が確認できる。 10両編成のとについては、小田原駅でを行い、最大6両編成で乗り入れている。 出典 [ ]• - 箱根登山鉄道(2019年12月22日閲覧)• - 乗換案内NEXT(2019年12月22日閲覧)• - 路線情報(2019年12月22日閲覧)• (2019年12月22日閲覧)• (2019年12月22日閲覧)• (国立国会図書館デジタルコレクション)• (国立国会図書館デジタルコレクション)• 神奈川新聞. 2020年3月26日. の2020年3月26日時点におけるアーカイブ。 2020年3月26日閲覧。 神奈川新聞. 2020年5月11日. 2020年5月12日閲覧。 , ナビタイム, 2018-2-5 ,• 2012年5月14日. 2013年2月14日閲覧。 (小田急電鉄・2017年12月15日)• 箱根登山鉄道 2019年9月5日. 2019年10月8日閲覧。 株式会社イード Response 2017年5月23日. 2017年7月3日閲覧。 日本語 PDF プレスリリース , , 2016年12月5日 ,• 日本語 プレスリリース , 箱根登山鉄道, 2017年5月17日 ,• 箱根登山鉄道公式サイトニュースリリース(インターネットアーカイブ)• - 小田急電鉄、2013年12月24日• - 箱根登山鉄道 参考文献 [ ] 社史 [ ]• 箱根登山鉄道株式会社総務部総務課『すばらしい箱根 グラフ100』箱根登山鉄道、1988年。 書籍 [ ]• 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』、2009年。 青田孝『箱根の山に挑んだ鉄路 「天下の険」を越えた技』交通新聞社、2011年。 荒井文治『箱根登山鉄道への招待』、1994年(原著1988年)、第6版。 市川健三編『箱根の鉄道100年』、1988年。 伊藤東作『鉄道110年とっておきの話』雄鶏社、1981年。 生方良雄、『日本の私鉄1 小田急』、1988年。 生方良雄、諸河久『小田急ロマンスカー物語』保育社、1994年。 生方良雄『小田急物語』多摩川新聞社、2000年。 生方良雄『小田急の駅 今昔・昭和の面影』、2009年。 加藤一雄『小田急よもやま話(下)』多摩川新聞社、1993年。 加藤利之『箱根山の近代交通』、1995年。 編『ブルーリボン賞の車両'88』保育社、1988年。 編『小田急 車両と駅の60年』大正出版、1987年。 0025-301310-4487。 渡辺一夫『トコトコ登山電車』あかね書房、1985年。 『58 東海自動車・箱根登山バス』BJエディターズ〈〉、2006年。 『2012 小田急時刻表』交通新聞社、2012年。 『鉄道車両ガイドVol. 15 箱根登山鉄道モハ1・2・3』、2013年。 雑誌記事 [ ]• 蛯原宏「初夏の山峡にツリカケ三重奏 箱根登山鉄道モハ1形・2形に見る連結運転」『』第467号、鉄道ジャーナル社、2005年9月、 50-55頁。 生方良雄「駅・線路変更にみる小田急の移り変わり」『』第546号、電気車研究会、1991年7月、 94-105頁。 生方良雄「私鉄車両めぐり37 小田急電鉄」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、 pp. 42-71。 小川浩之「現役車両を分かりやすく解説 箱根登山鉄道の通になる」『鉄道ひとり旅ふたり旅』第1号、枻出版社、2010年5月、 31-33頁、。 刈田草一「小田急列車運転慨史」『鉄道ピクトリアル』第405号、電気車研究会、1982年6月、 15-23頁。 刈田草一「小田急電鉄 列車運転の変遷」『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、 145-156頁。 岸上明彦「天下の嶮に挑む箱根登山鉄道」『鉄道ピクトリアル』第532号、電気車研究会、1990年9月、 41-45頁。 楠居利彦「特集 箱根登山鉄道」『』第93号、、1992年1月、 26-47頁。 杉田弘志「小田急電鉄 列車運転の変遷とその興味」『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、 204-219頁。 「箱根山に挑む観光鉄道」『鉄道ジャーナル』第383号、鉄道ジャーナル社、1998年9月、 40-49頁。 種村直樹「関東の駅百選を歩き、遊ぶ 4」『鉄道ジャーナル』第431号、鉄道ジャーナル社、2002年9月、 70-75頁。 一寸木正長、生方良雄「箱根登山鉄道1000形登場」『』第240号、交友社、1981年4月、 54-64頁。 西口靖宏、岸上明彦「箱根登山鉄道の車両と運転」『鉄道ピクトリアル』第405号、電気車研究会、1982年6月、 117-119頁。 細野詠一「箱根登山鉄道 サン・モリッツ号が征く」『鉄道ジャーナル』第275号、鉄道ジャーナル社、1989年9月、 136-141頁。 本多聡志「小田急電鉄列車運転の興味」『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、 106-112頁。 本多聡志「小田急電鉄 列車運転の興味」『鉄道ピクトリアル』第679号、電気車研究会、1999年12月、 189-193頁。 三浦衛「天下の険を攀じ登る 箱根登山鉄道 箱根湯本-強羅間3両編成運転化で輸送力増強」『鉄道ジャーナル』第324号、鉄道ジャーナル社、1993年10月、 70-77頁。 「箱根登山鉄道路線図」『鉄道ピクトリアル』第532号、電気車研究会、1990年9月、 24-25頁。 「日本一の登山鉄道を誌上体験」『鉄道ひとり旅ふたり旅』第1号、枻出版社、2010年5月、 10-30頁、。 「POST」『』第613号、、2012年5月、 186-194頁。 「RAILWAY TOPICS」『鉄道ジャーナル』第550号、鉄道ジャーナル社、2012年8月、 145-153頁。 「RAILWAY TOPICS」『鉄道ジャーナル』第573号、鉄道ジャーナル社、2014年7月、 114-120頁。 外部リンク [ ]•

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