やはり 暴力。 #1 やはり暴力……!

家庭内暴力、止める方法あります ひきこもり問題専門家 [ひきこもりのリアル]:朝日新聞デジタル

やはり 暴力

飯島氏の変死が報道されてから一週間経ったが、「鶏並の記憶力」と外国から揶揄されている日本人である。 もう忘れた人も多いだろう。 覚えていても興味のある人は極一部に違いない。 叩けばいくらでもホコリが出る事件なのだが、売り上げに貢献しそうもないので現在では取り上げるマスコミも少ない? 政治家本人や秘書の「変死・自殺」の場合、マスコミは政治圧力に屈して何も触れないのが通例だが、飯島氏の場合政治的背景があるとも思えないので、本来なら書き放題のはずである。 2ちゃんねるでは飯島氏の熱狂的なファンが多かったのか、未だに情報集めをしている連中がスレを立てている。 2ちゃんねるの管理者であるひろゆき氏と飯島氏は昵懇の間柄であるようだ。 そのひろゆき氏が自身のブログで飯島氏について言及している。 それなのに、亡くなった途端にテレビで特集とか組まれちゃって、なんだかなぁと思ったりします。 「お金が無かった」とか報道する前に、仕事を出来なくさせた所属事務所とかに取材すればいいのに。。 というわけで、ご冥福をお祈りします。 マスコミはおっかない所らしく、ひろゆき氏の表現も今ひとつ歯に衣を着せた表現である。 マスコミの対応ぶりだが、大手はほとんどがこの件から手を引いている。 しかし、中小では話に尾鰭を付けてカモを釣ろうとしているところもある。 なにやらジャニプロのスキャンダルと同じ流れである。 違うのは、「大野クンは絶対大麻なんかやってません!」と書き込む工作員がいないということだ。 年の瀬、芸能界を引退していた飯島愛(36)の突然の死は衝撃的だった。 本当のことを書けば書いた記者がやばくなるのだろう。 そのため、死因について様々な説が飛び交っている。 飯島の引退に、ナベプロは大反対でした。 芸能人としてはまだまだ売れっ子でしたからね。 暴露記事が多いゲンダイさんでも、実はあまり本当のことは書かない。 所詮はマスコミさんなのである。 よく馬鹿は「アサヒる」などと朝日を左翼新聞のように思い込んでいるが、読売も朝日も同じ穴の狢で、カモの好みに合わせているだけのことである。 ラーメンに味噌味と醤油味があるのと同じ理屈だ。 今月6日には栃木で行われたエイズ啓発イベントで元気な姿を見せていた。 飯島は引退後はほとんど仕事がない状態が続き、ブログで「所持金が9万8000円しかない」と、金欠を訴えたこともあった。 第三者がバックアップしていたと考えるのが自然だが、その影はうっすらとしかつかめていない。 青年実業家、ゲームソフト会社の経営者、IT関係者との親密交際もウワサされ、投資話にも積極的だったそうです」(マスコミ関係者) さらに、彼女が知人に投資を推奨していた時期もあったが、いずれの企業も問題を抱えている。 今年上場廃止に追い込まれた会社もあるし、赤字続きなのに巨額の増資を実施したウエディング関連会社、再建途上の情報通信企業など、一般には手を出しにくい会社ばかりだ。 「都内の繁華街で番組のロケが行われた時、こわもての人物が何人も飯島のところにあいさつにきて、現場の混乱を収めるために協力したというエピソードもあります」(前出の関係者) 飯島の死の真相を知る人物はいないのか。 何者なのか。 だとすれば、ゲンダイさんは「わざと知らないふりをしてとぼけている」ということになる。 「多少ネタばらししても煙に巻いておけば、馬鹿な読者に気付かれることはないだろう」とタカをくくっているのである。 ネタばらしとは「暴力団」のことだ。 芸能界と暴食団の関係は今さら言うまでもない。 飯島氏の経歴を考えれば、暴力団関係者がからんでいても不自然ではない。 氏の関与した事業にも暴力団の影が濃厚である。 暴力団のシノギの片棒を担いでいたというか強要されていた可能性も高そうだ。 一般的な精神力の持ち主なら、このような環境に耐えられず「自殺」という選択肢を選ぶことも考えられるが、飯島氏の場合はやはり他殺の可能性の方が高そうだ。 勿論口封じである。 この際、病死・事故死は除外していいだろう。 マスコミが初期報道で、氏のマンションから致死量に至る薬物が発見されなかった、とネタバレさせてしまったからだ。 後から、中毒死を擬装する虚偽報道をしても手遅れである。 (尤も、力尽くで押し通してしまうのだろうが…) 警察も飯島氏から何度も相談を受けて内実を把握しているようだが、今のところ動く気配がない。 暴力団や芸能関係者が政治家さんに泣きついたのかもしれない。 ランキングに参加中。 クリックして応援お願いします!.

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暴力で解決するのはなぜいけないのか?(※長文)

やはり 暴力

核兵器やらミサイルやらちらつかせて世渡りしてるような、暴力に支配された世界で個人の暴力を否定するってのも滑稽な話だと思いませんか? 話し合いだけが物事を解決する手段ではないですよね。 力のないものは力のあるものに、数の少ないものは数の多いものに屈する、という構図は結局話し合いでも暴力でも変わらないのですから、結果は同じことですし。 今の世の中は個人レベルの暴力を少し否定し過ぎではありませんか? 個人レベルでも暴力自体を肯定すれば戦争を肯定することに繋がりますか? しかし、政治に無関心で他国の核兵器保有や紛争は愚か、自国の戦争と言う最大の暴力にすらまるで関心を示さない人でさえ、個人単位での暴力には批判的な姿勢を剥き出しにしたりしますよね。 この行動が私には謎です。 彼らの真意は一体どこにあるのか。 ミクロとマクロもまあ一緒です。 なんで有史以来暴力が存在するかというと、究極すると人類が暴力を抑える方法として、暴力以上に効率のいい方法を発明できていないからです。 相手にこちらの言い分を無理にでも通そうとするとき、暴力が一番効率がいいです。 そして相手も無理な言い分をはねのけるには、暴力によって立場を対等に持っていくのが最も効率的です。 ですから相手に自分の言い分を言い聞かせるために核兵器が存在しますし、相手はその暴力に対抗するために核兵器が対として存在します。 相手に自分の言い分を言い聞かせるために軍隊が存在すれば、日本の場合ですと対の存在として自衛隊があります。 そしてその観念とは法であり、警察などの法執行機関であり、もしくはそれらを含めた社会的制裁の数々が、個人の暴力を抑制させ、個々の立場を対等へとする、対の暴力であると考えます。 強いるのに必要なのは・・・やはり暴力です。 この場合ですとピストルや警棒などの武器や、捜査権や逮捕権などの権限ですね。 暴力といっても、殴る・蹴る・刺す・サリンをまくといった身体的な暴力だけでなく、権力を使って相手を無理矢理自分に従わせるといった目に見えない暴力もあります。 あなたがどちらの暴力について議論しているのかはわかりませんが、今回は狭い意味での暴力、つまり身体的な暴力について回答したいと思います。 >話し合いだけが物事を解決する手段ではないですよね その通りです。 暴力を止める手段は暴力しかありません。 >今の世の中は個人レベルの暴力を少し否定し過ぎではありませんか? はい、そうです。 なぜなら国家が暴力を独占しているからです。 刃物を持った男が小学校に侵入し、生徒を刺し殺しているとします。 そのとき私たち市民に求められる行動は、自分たちでその男を殺すことではありません。 110番通報をし、警察に捕まえてもらうことです。 警察が男をとりおさえ、身柄を拘束し、法律で裁く。 死刑になることもある。 こうした一連の流れは法律で認められています。 つまり、正当化されているのです。 法律は国家の暴力ですが、それが否定されないのは、正当化されているからです。 個人の暴力が否定されるのは、それが正当化されていないからです。 違いはそれだけです。 「なぜ暴力で解決を図ろうとすると悪とされるのか」 なんの解決ですか。 売買契約の交渉の解決に暴力もあり、という規定を設ける? 国会での論戦に暴力もあり、とすべき? 個人のいざこざに多少の暴力という方法論も認めるべき? すべて、暴力を使わずに解決するための論理的な方策や様々な規定が機能していますよ。 「話し合いでも暴力でも、力あるものが支配し力なきものが屈する構図は変わらない」が真実でも、だから暴力も話し合いも同じ、という論法にはなりません。 暴力は物の道理にかなっているかどうか、という法理念に通ずる道理の問題ではなく、ただ自分の欲求を満たしたいだけの人でも強ければそれが通せる、という別のメカニズムを生むだけです。 交通ルールを守っても交通事故死はなくならないなら、守らなくてもいい、わけじゃないのと一緒です。 皆が守らなければ、交通事故の死者は爆発的に上昇するだけです。 簡単に言えば、法治国家の単位で、その構成員である国民に暴力は許されていません。 許されるのは基本的に法執行側 警察官など だけで、つまり違法な行為、特に暴力を行使しようとする構成員を従わせるために必要とされるから、許されるわけです。 違法者の暴力に対する時だけ、つまり正当防衛として認められる場合にのみ、個人の暴力も免責される、というのも同じメカニズムです。 なぜなら、社会は、構成員を必要とするために構成員の権利=人権を最大限尊重する立場だからです。 その人権においては力の優劣はなく基本的に平等と定義されているから、暴力は否定されるわけです。 ところが、国家間の問題になると、その複数国家を構成員と見なす上位概念が存在しません。 国連はただの戦後処理機関の流用であって、国家と社会契約を結ぶ上位組織ではないんです。 だから、国際法という概念はあってもその法執行機関は現実にはないし、国連決議によって有志が暫定的執行団体を組むだけの、無法状態といっていい世界です。 だから、暴力を抑制するメカニズムが機能せず、戦争はなくならず、国家が国家を加害・抹殺してもその国家を断罪する超国家はいないし、現状では出来得ないでしょう。 こういう国家間問題を盾に、多少の暴力はいいじゃないか、というのは法治国家の理念や社会契約説を無視した「わがまま」でしかありません。 もちろん、そういうわがままをいろんな手を使ってずっとしてきたのが、俗にいう暴力団なんですが。 しょせん、人間の作るものですから完璧にはなりません。 その不完全な社会を見て、どーせダメなら暴力だっていいじゃん、というのは、さらに不完全さを促進させるだけの論理です。 そういう考え方が、ダメな部分を存続させる最大の要因でもあるんです。 つまり、暴力だって多少はいいじゃん、と言いたい人が、目先欲求を満たす言い訳をするせいで、社会をダメにしている、はある意味正しい解釈です。 暴力による解決。 実はそれは自然の摂理です。 弱い者は強いものに暴力で支配される。 ときには命までも支配されます。 どんな動物でも、この掟に従っています。 仲良しそうに見えるツバメのヒナも、 弱い個体は餌をもらえず、餓死するか、 巣から放り出されて死ぬ運命です。 なぜ暴力がいけないかと言うならば、 それは、長い年月をかけて、人間たちが お互いに暴力を振るわないようにすることで、 種族を増やし、繁栄してきたからです。 それぞれが暴力をもって自分を主張すれば、 国家というまとまりは崩壊し、人間は獣の時代に 逆戻りすることでしょう。 ですが、現状では暴力は蔓延しています。 国家間は、暴力による脅しあいで均衡し、 日本以外の国々では、暴力が平然と まかりとおっています。 それらを無くせるならば、 より人間は繁栄し、個人が理不尽な扱いを 受けることなく暮らせるでしょう。 また、戦争などの物理的破壊行為だけが暴力ではありません。 男は腕力という暴力を控え、 女は言葉という暴力を控える必要があります。 以上は、あくまでも人間種族を優先した考えです。 大自然においては、これらの考えは意味を持ちません。 不条理で動圧的な暴力が世界を支配しています。 それが心理です。 すなわち、暴力は悪ではなく、生物としての本能です。 人間も生物であるため、これらから逃れることはできません。 本能に従い、動物的に生きるか、理性にしたがい 人間的に生きるか。 それだけのことです。 まず、「暴力」とは何か、という点があるかと思います。 例えば、剣道や柔道、空手といった格闘技では、相手を殴ったりぶん投げたりします。 こういったものを「暴力」と呼ぶならば、「暴力」は認められています。 次に、「解決」とは何か、という点もあると思います。 例えば、気に食わない人がいて、その人をぶん殴って、ぶん殴った人の気が晴れれば、「解決」したのではないでしょうか。 そして、それは、社会的にはいけないことですが、その人が社会的に罰せられることを許容するなら、いけないことではないと思います。 おそらく、質問者さんの質問は、「なぜ社会で暴力が禁止されているのか?」という点だと思います。 この理由は、「暴力は相手の身体の健康という権利を侵害するから」ということになろうかと思います。 つまり、一定の社会においては、個人の財産や表現などと同様に、身体も保護する必要があります。 このため、社会のルールとなっているのだと思います。 特に、物理的・社会的に力のある人の暴力は、それを受けた人の被害の大きさやそれに抗する力の弱さを理由に、より重く罰するのだと思います。 結論から言いますと、多少の暴力は認められていると思います。 例えば、正当防衛などはいい例なのではないでしょうか?.

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KBSトリオ

やはり 暴力

ページをご覧いただき、ありがとうございます。 松田太希(まつだたいき)と申します。 私は、中学生の頃、地域の野球のチームに所属し、プロ野球選手を目指していました。 ある日の試合、あまりよくない負け方をしてしまい、監督・コーチが怒ってしまい、試合が終わってすぐに練習場に移動しました。 「反省をしろ」という監督・コーチの意図があったのだと思いますが、その時の練習は恐怖でしかありませんでした。 ミスをしたら怒号が飛んできて、「死ね!」と言われました。 そして、最終的には、チーム全員整列し、端の仲間から順番にビンタをされました。 それは、父兄のいる前で行われました。 ただ、それよりも、その時の自分が、ビンタの順番が来ることを律儀に待っていたことに、自分でも驚き、ワケの分からない気分になっていました。 しかしチームメイトやその親たちは「それくらい我慢しないと」という調子でした。 チームメイトにはコーチの息子もいたのですが、彼が殴られている場面はとても悲惨だったので、目をそらすことしかできませんでした。 子どもながらに「家に帰っても彼はつらいだろうな」と感じていたことを覚えています。 そんな経験があったので、高校生になってからは、野球部ではなく、バレーボール部に入りました。 ワールドカップバレーをテレビで観て「こりゃかっこいいスポーツだ」と感じていました。 この時の部活には指導ができるような顧問がおらず、基本的には自分たちで練習していました。 僕は初心者でしたが、3年生の頃にはチームのエースとなることができました。 その時の部員たちには恵まれました。 やりたいようにならせてくれました。 彼らには今でも感謝しています。 そんな経験によって、僕は自分たちで考えてスポーツをやることのすばらしさを理解することになりました。 高校の部活を引退した後は、地元のスポーツ少年団のバレーボールのコーチとして、お手伝いをしました。 しかし、そこでもまた、悲惨な体罰・暴力を目にしました。 具体例は数限りなくありますが、今でも鮮明に覚えているのは、エーススパイカーの女の子がミスをした後、狂ったようなテンションで指導者がその子の髪の毛をつかみ、体育館をひきずり、得点版に顔をぶつけていたことでした。 助けに入るべきだったのに、足がすくんでしまってできませんでした。 今でもあの子に申し訳ないことをしたと後悔することしかできません。 大学でもバレーボールを続けましたが、大学時代もやはり暴力を目の当たりにすることになりました。 ある強豪校の練習に参加した時、監督教員が現れたとたん、それまでのわきあいあいとした体育館の雰囲気が一変し、「何かが起きる」という張りつめた空気に変わりました。 鈍い音がしたと思って振り返ると、同校の部員が殴られていました。 僕としては、その監督教員がその著書で「自分は殴らない」「体罰はいけない」といいた趣旨の文章を明記していることを同書を読んで知っていたので、その瞬間、「こんなやつらを真面目に相手にしようとしていたオレがバカだった」と吹っ切れました。 ただ、そうはいっても、暴力という過酷な現実をこの目で見た衝撃と、それに対する問題意識が完全に消え去ることはありませんでした。 そこで、卒業論文と修士論文では、暴力的な体育・スポーツの風土がどこから来ているのかを、学校体育史や師範教育史を詳細に調べていくことで明らかにしようと試みました。 しかし、「なぜ今現在も起きているのか」ということまでは言及できず、その点に不満が残ったので、博士課程に進学し、博士論文では、暴力の根源性に迫る研究に挑みました。 博士論文では、体罰・暴力が頻出してい学校とスポーツという二つの場を対象にしました。 その時の着眼点は、両者が「或る目的に向かって指導者の下で成員間の連帯が求められる集団」であるという点で構造的に類似しており、その構造こそが暴力の発生を規定しているのではないかと考えました。 体罰・暴力に限って、結論を簡潔にまとめると、以下のようになります。 これを根源的な暴力性と名づけました。 したがって、教師や指導者も必然的に暴力的な存在であることになります。 それは「善悪の彼岸」の問題であり、単純に否定するとか、そういうものではありません。 だから、たとえ暴力を受けたとしても、それに抵抗することでその場にいられなくなってしまう可能性があるなら、抵抗しない道を選ぶでしょう。 さらに、暴力を受けたとしても、その場に存在すことを、たとえばスポーツ推薦などといった制度によって矯正されている、そして、「自分にはスポーツしかない」と積極的に意味づけてしまえば、暴力すらも「スポーツの世界で生きていくため」というある種の道徳的観念に置き換えることができてしまいます。 それは極めて普通のことで、然るべきことでもあります。 しかし、一生懸命に理想に向かっていこうとすればするほど、自分の中のイメージと現実とのギャップは大きくなります。 必死で指導案を書いて準備をしたがために、授業開始時に指示を聞かない生徒を怒鳴ったという実際の例が、僕の身近にはありましたが、それは端的な例です。 しかし、怒鳴った以上、それは何らかの教育的意味づけがなされる必要があります。 「怒鳴った」という行為がそのまま放置されてしまっては、教師としてあるまじき行為だ、ということになってしまいます。 そこで、「怒鳴ったのには〜という意図があった」という意味づけが行われます。 体罰も同様です。 殴るという行為が「殴った」という事実のまま放置されてしまうと、それはただちに暴行を意味します。 しかし、教育の世界において、それはあるまじきことであるため、「殴ったのには〜という意図があった」という意味づけがなされ、「殴る」という行為が「体罰」として意味を与えられます。 スポーツ指導場面でも構造は同様です。 こうした状況は、客観的に見れば大したことのないように見えますが、その場におかれ、その場で生きている人々にとっては、非常に深刻なものです。 外側から別の価値にもとづいて批判することは非常に簡単ですが(たとえば「人生スポーツだけじゃない」といった具合に)、学校やスポーツにはそれぞれに固有の意味があるので、そう簡単には批判できません。 「今よりも良く」ということを放棄してしまえば、教育もスポーツも、基本的にはありえません。 良くなっていこうとする根源的な態度によって、教育やスポーツは可能になっています。 つまり、学校教育やスポーツの根源的な力と暴力は密接に関連していることになります。 これを私は目に見える具体的な暴力現象と区別するために「暴力性」と言うことにしました。 今までの体罰・暴力対策は、おざっぱにいえば、暴力現象という表面的なレベルでしか考えられてこなかったところがあります。 厳罰化やアンガーコントロールなどです。 たしかに、それは迅速な対応が要求される現場のために必要なものではあります。 しかし、アンガーコントロールについていえば、「怒りを制御しろ」ということはわかっていても、そうはできないのがある意味では人間の自然なあり方ではあります。 そうはできないから困っていると考えた方が、問題のアクチュアリティをとらえているでしょう。 厳罰化についていえば、「禁止ばかりされたらどうすればいいかわからない」という声がじつは現場から上がってくることがあります。 「殴ることもやめられないのか」と言いたいところだし、実際にそういうケースもあるでしょうが、暴力性という視点から考えてみると、こうした現場の声を単なる無思慮な発言としてバカにしてはならないということになります。 むしろ、暴力性という根源的な力に気づいているかのような発言として考えるべきでしょう。 暴力は極めて深刻な問題です。 最悪の場合、人命が失われます。 しかし、以上のことから、単にそれを禁止したり、問題を起こした者に厳罰を下すだけでは不十分です。 今までの対策では不十分だったことは、その端的な証左でもあるでしょう。 では、どう考えるのか。 やはり目を向けるべきは「暴力性」です。 暴力性が、体罰・暴力だけでなく、教育やスポーツの根源に関わる力であるのなら、「暴力を顕在化させないためにいかに暴力性と付き合っていくのか」という極めて実践的な問題に取り組むことが私たちの課題ということになってくるでしょう。 しかし、では、どうやって?この先も、哲学や教育学の文献の吟味・検討・解釈を続ければいいのでしょうか。 おそらく、それには限界があります。 したがいました、ここからは先は、これまでの研究で明らかになったことを大きな分析枠組みとしつつも、あとは個別の問題状況にコミットすることでしか解決の糸口はありえないでしょう。 「教育・スポーツ文化研究所」は、ここにコミットするための機関です。 じつは、すでに関連団体からの依頼を受け、外部有識者として活動していたことがあるのですが、そこでわかったことは、大きな組織になってしまうと迅速で柔軟な対応ができないという、これもまた深刻な現実でした。 しかし問題意識を持っている人々はたくさんいました。 問題の深刻さに気づいている人がいるにもかかわらず、深刻な実態にコミットできないという現実は、やはり変革していかなければなりません。 そうして構想されたのが本プロジェクトです。 具体的には、以下のようなポイントを掲げて活動を行います。 関係各所との連携。 関係各所との連携。 個別の状況に応じて、助言・進言をおこないます。 危機的なケースにおいては、精神科医などと共同し、心の回復に向けたケアやサポートをおこなっていきます。 すでに述べたように、暴力加害者であれ、苦しんでいるケースが非常に多いです。 「どうすればいいのか」という声を受け止めるためのホットラインです。 視線をずらせば、虐待問題やアルコール中毒といったことにもケアやサポートが必要なように、暴力問題についても、やはり求められるでしょう。 個別のケースや相談者の個性に応じて、助言をおこないます。 そこでは性格上の問題など様々なことがまさに個別の状況に応じて考えられるでしょうが、最も重要かつ考えるべきことは、「どうすればうまくできたのか」という方法の問題です。 この機関では、関連する機関とのネットワークをフル活用し、優秀な研究者や教師・指導者に共同していただき、個別のケースに応じて、相談者と一緒に解決策を考えるということになります。 教育学やスポーツ哲学にはたくさんの知見がこれまでの研究によって蓄積されています。 現場だけでうまく突破できない課題があれば、そうした知見を有効活用しない手はありません。 もっとも、重要なことは、単に「こんな方法ありますよ」と提示して終わるだけではなく、相談者が実践の中で考え、乗り越えていく力が身につくようになるまで継続してサポートすることです。 そのような「乗り越えた相談者」は、今度は、次の相談者の相談に応じることで、その経験を活かすことができます。 そうした存在は、悩んでいる人々にとって非常に貴重なものとなるでしょう。 すでに記しましたように、私自身が過酷な暴力の現実を経験し、その経験にもとづいた研究を行なってきました。 体罰に関する論文は、学会から賞を受けたこともあります。 適切な表現ではないかもしれませんが、経験と実績があります。 必ず有効な解決の糸口を、現場の方々と見出していけるだろうと感じています。 非常に優秀な協力者とのネットワークもあります。 本プロジェクトの理念と活動が重要なものであることは間違いありません。 暴力問題に関する私の論文は、学会から二つの賞を受けています。 単なる思いつきや衝動的なアイデアではなく、一定の評価を受けている研究が、この活動の根拠にあります。 それにもとづいた現場の方々とのこれまでの交流の中で、変革に向かっていこうとする人々との、たしかで強力な共鳴がありました。 どうか、みなさまのご支援、よろしくお願いいたします。 プロジェクト終了要項 以下の2つを実行したことをもってプロジェクトを終了とする。 *相談者との面談について。 相談者:決定済み。 *関係各所との会議について。 プロフィール 450,000 円 研究所メンバーとしての採用選考応募への権利 研究所が全国各地の深刻なケースに迅速かつ柔軟に対応するためには、優秀なスタッフが複数必要であることは、言うまでもありません。 一方で、大学などの研究機関への就職は非常に厳しい状況にあり、優秀な人材が力を発揮する場所につくことができていない状況があります。 高額を要求させていただくことにはなりますが、この額でご支援いただけた方で、なおかつ共に研究所スタッフとして活動したいと思われた方は、ぜひ採用選考にご応募ください。 資格などはいっさい問いません。 他人への共感的理解、柔軟な発想、地道な活動を継続していく力のある方など、ぜひに!。 特に、心の傷ついた子どもたちのサポートには女性の存在が必要不可欠だと考えています。 なお、「ぜひ研究所に参加したい」という方のうち、支援額を払うことが難しい方はご相談ください。 jpg? 松田太希(まつだたいき)と申します。

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