スペイン 風邪 アメリカ 大統領。 余録:「大統領は昨木曜、重病になった…

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第1次世界大戦の終結を早めたスペイン風邪 昨日お伝えしたスペイン風邪は、第1次世界大戦の終結を早めたと言われています。 フランス、イギリス、そしてアメリカの連合国とドイツ軍との戦いでしたが、双方とも兵士の実に半数以上が感染したからです。 つまりスペイン風邪によって、戦争どころではなくなったのです。 これとは逆に、スペイン風邪が戦争を始める要因の1つになったという指摘があるのが、第2次世界大戦です。 アメリカのウィルソン大統領がスペイン風邪にかかったことが、まわりまわって第2次世界大戦に結びついた可能性があるのです。 ウィルソン大統領が感染したのは、ちょうど1919年4月のパリ講和会議の最中でした。 第1次世界大戦の戦勝国のリーダーたちが、ドイツへの賠償金などを話し合っていた時です。 パリ講和会議では、アメリカがフランス、イギリスと対立しました。 アメリカのウィルソン大統領は、ドイツに賠償金を求めないスタンスでした。 一方、フランスとイギリスの首相は、ドイツに巨額の賠償を求めました。 とりわけフランスは強硬でした。 ドイツと国境を接し、甚大な被害を受けたからです。 第2次世界大戦へと操ったスペイン風邪 パリ講和会議で対立が深まる中、ウィルソン大統領が突然スペイン風邪に感染します。 生死をさまよい、4日間ベッドに臥せました。 その後、会議に復帰しましたが、もう持論を展開する気力はありません。 結局、フランスやイギリスの主張が通りました。 ドイツに対する巨額の賠償金が決まったのです。 その結果、ドイツの経済は危機的な状況となり、国民の間で不満が高まりました。 そこで台頭してきたのが、ヒトラー率いるナチスです。 第2次世界大戦を引き起こしました。 スペイン風邪は、歴史を悪い方向に操ったのです。 前回のニュース検定.

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「スペイン風邪」の流行(感染拡大)経緯と名称や被害について!簡単解説しています。

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ミリタリーリポート@アメリカ 2020. 11 大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号が停泊した横浜・大黒ふ頭には複数の救急車両と防護服を着た関係者の姿が見られた=2020年2月19日、田辺拓也撮影 トランプ政権の遅すぎた取り組み 筆者周辺の米軍関係者(多くは情報分析担当者など)はすでに昨年末から、中国で新型インフルエンザらしき病気が発生しているらしいとの情報を取り沙汰していた。 ただし、確定情報ではなかったため、米軍指導部が公式に取り上げ、米政府当局が本腰を入れて取り組むまでには至っていなかった。 いよいよ1月下旬の春節の時期になり、中国で新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大が公になると、ようやくアメリカ政府も関心を示し始めた。 しかしながら、武漢で爆発的に感染が拡大していたとはいうものの、1月下旬の段階では、トランプ政権にとっては中国、香港、タイ、シンガポールといった「東アジアでの出来事」にすぎなかった。 何といっても、今年はアメリカ大統領選挙の年であり、アメリカ国内でインフルエンザも猛威を振るっている。 そんな時に「武漢ウイルス」(初期段階ではそのように呼ばれていた)に本気で向き合おうという姿勢を、米政府当局に見受けることはできなかった。 そのため、中国との行き来を大幅に制限してしまえば「アメリカにはさしたる影響は生じないだろう」という「無関心から生じる楽観的推定」にトランプ政権首脳や多くのアメリカメディアなども支配されていたようだ。 ただし中国との往来の制限は、政府当局においても民間航空会社においても素早く実施され、武漢や湖北省に限らず中国全土への渡航の大幅制限措置や、中国全都市との航空便の全面的運休などは2月初頭には開始されていた。 このようなトランプ政権の新コロナウイルス対策に、感染症対策専門家や軍関係者たちの間から「トランプ大統領は1918-インフルエンザ・パンデミックの事例と教訓を思い起こし、素早く本格的な対策を実施しなければ、アメリカ国内でも新コロナウイルスの流行を招きかねない」との警告が投げかけられ始めた。 結局2月下旬に、大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号からアメリカ市民を「救出」することになった一方で、中国、韓国、日本といった東アジアだけでなくイタリアでも感染者数が急激に拡大し始めた。 トランプ大統領は2月26日、ペンス副大統領を新コロナウイルス制圧の責任者に任命し、アメリカ政府による本格的な対策がスタートしたのだった。 ところがその3日後、アメリカ国内で初の死亡事例がワシントン州で発生したと発表された。 さらに数日のうちにワシントン州を中心に死亡者数は10人を越えてしまった。 要するに、上記のような「1918-インフルエンザを思い起こせ」という警告に素早く対応しなかった米政府は、水際対策に失敗したのである。 1918-インフルエンザ=スペインかぜの経過 スペインインフルエンザに感染した米軍兵士の収容所(米疾病対策センター(CDC アーカイブから) 米軍関係者や感染症対策専門家たちが取り上げる「1918-インフルエンザ・パンデミック」は、第1次世界大戦末期の1918年春にアメリカやヨーロッパで流行し、引き続き1918年秋には世界中で流行、さらに1919年春以降にも世界中で流行した3波に渡る世界規模でのインフルエンザ大流行を指す。 この「1918-インフルエンザ」は「スペインインフルエンザ」または「スペインかぜ」とも呼ばれ、世界中での感染者数は5億人前後と推定され、死亡者数は4000万~1億人とも見積もられている。 記録が確かな範囲での人類史上最大のインフルエンザによるパンデミックとされているのだ。 スペインインフルエンザの感染は、以下に述べるように、第1次世界大戦に参戦したアメリカ軍と密接な関わりを持っていたため、現在も米軍内部ではインフルエンザ対策には重大な関心と努力が払われている。 そのため、今回の新型コロナウイルスに関しても、当初から米軍情報関係者たちは深刻な危惧を抱き、トランプ政権のスローテンポな対策に強く警鐘を鳴らしたのだった。 1917年4月、アメリカ政府は第1次世界大戦への参戦を決定。 当時の米軍兵力は陸軍、海軍、海兵隊を合わせてもおよそ37万8000人だった。 そこで、兵力(とりわけ陸戦力)を増強するために6月から徴兵が開始された。 徴兵に伴い、全国32カ所に、それぞれ2万5000~5万5000人の新兵を集めて教育訓練するための比較的大規模な訓練駐屯地が設置された。 1918年3月、米国内でインフルエンザが発生しはじめた。 すると、カンザス州の米陸軍訓練駐屯地だったキャンプ・ファンストンで100人以上の兵士がH1N1型インフルエンザウイルスに感染。 1週間と経たないうちに500人以上の兵士の間に広まった。 これが、アメリカ国内でスペインインフルエンザの大規模感染発生の最初のケースとなった。 ただし、この大感染の発生源については、上記カンザス州とする分析以外に、フランスだったとする分析や、中国だったとする分析などがある。 イギリス軍をはじめとする連合国軍側の大規模な病院施設を含む軍事拠点が設置されていたのが、フランスのエタプル駐屯地だ。 そこには毎日10万人以上の将兵が出入りしていただけでなく、豚や鳥などの家畜が食用として大量に飼育されていた。 その鳥の間で増殖したH1N1型ウイルスが兵士に感染したのを大感染の起源とするのが、フランス起源説である。 中国起源説とは以下のようなものである。 世界中で大量の人が感染して死亡したスペインインフルエンザだったが、中国での死亡者数は極端に少なかった。 ただし、中国では1917年にはすでに軽度のインフルエンザが大流行した。 そのため、多くの中国人にはそのインフルエンザによってH1N1型ウイルスへの抗体ができていたと考えられる。 そして、H1N1型ウイルスに感染していた多数の中国人労働者たちが、ヨーロッパの軍事施設の建設現場などに送り込まれたため、米軍をはじめ連合国軍将兵や、敵対するドイツ軍将兵の間にも感染が広がっていたとみられている。 隠蔽されたインフルエンザの流行 ウイルスや感染症対策などの専門家によると、インフルエンザウイルスや今回の新型コロナウイルスなどの発生源を明確に特定することははなはだ困難という。 上記のように、スペインインフルエンザの発生地域に関してはアメリカ起源説、ヨーロッパ起源説、中国起源説と大まかな発生地すら明らかになっていない。 その主たる原因は当時の主要政府・軍機関による情報隠蔽・情報操作にあったと指摘する声は少なくない(John M. Barry著「The Great Influenza: The Story of the Deadliest Pandemic in History」参照)。 発生源がどこであったにせよ、第1次世界大戦の主戦場だったヨーロッパと、第1次世界大戦に参戦しヨーロッパの戦場に将兵を送り出し始めていたアメリカでは、将兵の間でも民間人の間でもインフルエンザが猛威を振るい、莫大な数の感染者と死亡者が出た。 しかしながら戦場となっていたヨーロッパでは、連合国側・同盟国側いずれの政府とも、戦争を遂行するために高度な情報統制を敷いていた。 そのうえ、大量の将兵が病気に感染している情報が敵方に知れると、戦局が不利になるため、大感染に関する情報はイギリスでもフランスでもドイツでも敵味方を問わず、ひた隠しに隠したのだった。 アメリカにおける情報統制 一方、アメリカでもウッドロー・ウィルソン政権は、第1次世界大戦への参戦に際し、米国内の情報を統制し米国民の士気を高揚させるために、プロパガンダ機関としてのCommittee on Public Information(広報委員会)を創設するとともに、Sedition Act of 1918(1918年の扇動罪)を制定した。 これらの諸施策によって、政府への忠誠を欠いたり、不敬、中傷的であったり、無礼な表現や論調、戦争遂行努力を妨害するようなあらゆる行為を犯罪として取り締まることになった。 そのため、アメリカ軍や連合国軍内でのインフルエンザの大流行も隠蔽されたのだった。 実際の戦場とはならなかったアメリカ国内での大流行を公表することすら、米軍や連合国軍の士気を低下させ、敵を利する行為となりかねないとして、正しい情報が政府機関やメディアによって公表されることはなかった。 とはいっても、数多くの人が苦しんで死に至る状況や、棺の数が不足して死体が収容しきれなくなってしまう状況を、政府の情報隠蔽や情報操作だけでごまかし通すことはできなかった。 やがてスペインインフルエンザの大流行は公然の事実となった。 シカゴ保険局が作成した、インフルエンザへの注意を呼びかけるポスター。 内容から、劇場の入り口に掲げられていたと思われる(米疾病対策センター(CDC アーカイブから) こうして感染症の大流行を押さえ込むために決定的に重要な初期段階に、アメリカ政府のみならず主要国政府が情報を隠蔽したため、第2波そして第3波の大流行へと発展し、史上最大のインフルエンザ・パンデミックとなってしまったのである。 皮肉なことに、第1次世界大戦に参加しなかったスペインでは、国王もインフルエンザに感染したため、インフルエンザ大流行の情報を正確に公表した。 そのため、1918-インフルエンザ大流行のニュースは、スペインが発信源となってしまったので、「スペインインフルエンザ」「スペインかぜ」と呼ばれるようになったのである。 最大の教訓 スペインインフルエンザ・パンデミックから100年経過した現在、ウイルス研究や感染症対策をはじめとする医療技術や公衆衛生対策は飛躍的に進化している。 ただし、感染症対策や軍事史の専門家たちは次のように指摘している。 スペインインフルエンザ・パンデミックから現在にもそのまま適用可能な(適用されるべき)最大の教訓は、「パンデミックを押さえ込むには、絶対に事実の隠蔽や歪曲を避け、真実をありのままに語る」ことである。

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「スペイン風邪」はナチスドイツ台頭の一因に パンデミックや大災害が人類にもたらしたもの

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新型コロナウイルス禍がパンデミックの模様を呈している()。 パニックや流言飛語も相次いでいる。 しかしこのようなパンデミックは、20世紀を含め過去に何度も起こり、そして人類はその都度パンデミックを乗り越えてきた。 今次の新型コロナウイルス禍への対策と教訓として、私たちは人類が遭遇した過去のパンデミックから学び取れることは余りにも多いのではないか? 本稿は、20世紀最悪のパンデミックとされ、世界中で2000万人~4500万人が死亡し、日本国内でも約45万人が死亡した 「スペイン風邪」を取り上げる。 そして日本の流行状況と公的機関の対策を追い、現在のパンデミックに抗する教訓を歴史から得んとするものである。 速水(左)、内務省(右) ・100年前のパンデミック「スペイン風邪」とはなにか 1918年から1920年までの約2年間、新型ウイルスによるパンデミックが起こり、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染。 そのうち2000万人~4500万人が死亡したのがスペイン風邪である。 現在の研究では、そのウイルスはH1N1型と特定されている。 スペイン風邪の発生は、今から遡ること約百年前。 1918年春。 アメリカ・カンザス州にあるファンストン陸軍基地の兵営からだとされる(速水,38)。 当時は第一次世界大戦の真っ最中で、ドイツ帝国は無制限潜水艦作戦によって中立国だったアメリカの商船を撃沈するに至った。 このドイツの粗暴な振る舞いがアメリカの参戦を促し、アメリカは欧州に大規模な派遣軍を送ることになる。 アメリカの軍隊から発生したとされるスペイン風邪は、 こうしてアメリカ軍の欧州派遣によって世界中にばら撒かれることになった。 当時のパンデミックは、航空機ではなく船舶による人の移動によって、軍隊が駐屯する都市や農村から、その地の民間人に広まっていった。 ちなみに、アメリカから発生したのになぜスペイン風邪という呼称なのか。 それは第一次大戦当時、スペインが欧州の中で数少ない中立国であったため、戦時報道管制の外にあったからだ。 そのためこの新型ウイルスの感染と惨状が、戦時報道管制から自由なスペイン電として世界に発信されたからである。 スペインでは800万人がスペイン風邪に感染。 国王アルフォンソ13世や政府関係者も感染した。 日本では当初「スペインで奇病流行」と報道された(速水,49)。 ・「スペイン風邪」、日本に上陸 日本でスペイン風邪が確認されたのは、1918年、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。 そののち、同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がった(速水,328)。 当時、 日本の報道でのスペイン風邪の俗称は「流行性感冒」である。 速水によれば、日本に於けるスペイン風邪流行は「前流行」と「後流行」の二波に別れるという。 「前流行」は1918年の感染拡大。 「後流行」は1919年の感染拡大である。 どちらも同じH1N1型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が高く、この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあるという。 ともあれ、このスペイン風邪によって、 最終的に当時の日本内地の総人口約5600万人のうち、0. 8%強に当たる45万人が死亡した。 当時、日本は台湾と朝鮮等を統治していたので、 日本統治下全体での死者は0. 96%という(速水,426. 以下、図表参照)。 1945年、東京大空襲による犠牲者は10万人。 日露戦争による戦死者約9万人を考えるとき、この数字が如何に巨大なものかが分かるだろう。 単純にこの死亡率を現在の日本に当てはめると、120万人が死ぬ計算になる。 これは大阪市の人口の約半分にあたる。 筆者制作 ・「スペイン風邪」の凄惨な被害~一村全滅事例も 「前流行」と「後流行」の二波による日本でのスペイン風邪の大流行は、各地で凄惨な被害をもたらした。 以下速水より。 *適宜筆者で追記や現代語訳にしている。 福井県九頭竜川上流の山間部では、 「感冒の為一村全滅」という見出しで、面谷(おもだに)集落では人口約1000人中、970人までが罹患し、すでに70人の死亡者を出し、70人が瀕死の状態である旨報道されている。 出典:速水,146 (1919年)2月3日の東京朝日新聞は、東京の状況を「感冒猛烈 最近二週間に府下(当時は東京府)で1300の死亡」という見出しのもと、警視庁の担当者談として「今度の感冒は至って質が悪く発病後直肺炎を併発するので死亡者は著しく増加し(中略)先月11日から20日までに流行性感冒で死んだ人は289名、肺炎を併発して死んだ人は417名に達し(後略)」と報道している。 各病院は満杯となり、新たな「入院は皆お断り」の始末であった。 出典:速水,161 (岩手県)盛岡市を襲った流行性感冒は、 市内の各商店、工業を休業に追いやり、多数の児童の欠席を見たため、学校の休校を招いた。 (1919年11月)5日には厨川(くりかわ)小学校で2名の死者を出し、さらに6日の(岩手日報)紙面は「罹患者2万を超ゆ 各方面の打撃激甚なり 全市困惑の極みに達す」との見出し 出典:速水,168 神戸には、夢野と春日野の二箇所に火葬場があったが、それぞれ100体以上の死体が運ばれ、 処理能力を超えてしまい、棺桶が放置されるありさまとなった。 出典:速水,128 など、日本を襲ったスペイン風邪の猛威は、列島を均等に席巻し、各地にむごたらしい被害をもたらした。 とりわけ重工業地帯で人口稠密であった京都・大阪・神戸の近畿三都の被害(死亡率)は東京のそれを超えていたという。 だが、上記引用を読む限り、大都市部であろうが農村部であろうが、スペイン風邪の被害は「平等」に降りかかっているように思える。 ・「スペイン風邪」に当時の政府や自治体はどう対処したのか さて、肝心なのは当時のパンデミックに日本政府や自治体がどう対応したかである。 結論から言えば、様々な対処を行ったが、根本的には無策だった。 なぜならスペイン風邪の病原体であるH1N1型ウイルスは、当時の光学顕微鏡で見ることが出来なかったからだ。 人類がウイルスを観測できる電子顕微鏡を開発したのは1930年代。 実際にこのスペイン風邪のウイルスを分離することに成功したのは、流行が終わって十五年が過ぎた1935年の出来事であった。 つまり当時の人類や日本政府は、スペイン風邪の原因を特定する技術を持たなかった。 当時の研究者や医師らは、このパンデミックの原因を「細菌」だと考えていたが、実際にはウイルスであった。 当時の人類は、まだウイルスに対し全くの無力だったのである。 それでも、政府や自治体が手をこまねいたわけではない。 今度は内務省を中心に当時のパンデミックに対し、公的機関がどう対処していくのかを見てみよう。 大正8年(1919年)1月、内務省衛生局は一般向けに「流行性感冒予防心得」を出し、一般民衆にスペイン風邪への対処を大々的に呼びかけている。 驚くべきことに、スペイン風邪の原因がウイルスであることすら掴めなかった当時の人々の、未知なる伝染病への対処は、現代の新型コロナ禍における一般的な対処・予防法と驚くほど酷似している。 以下、内務省から抜粋したものをまとめた。 *適宜筆者で追記や現代語訳にしている。 ・はやりかぜはどうして伝染するか はやりかぜは主に人から人に伝染する病気である。 かぜ引いた人が咳やくしゃみをすると眼にも見えないほど細かな泡沫が3、4尺(約1メートル)周囲に吹き飛ばされ、それを吸い込んだものはこの病にかかる。 ・(はやりかぜに)かからぬには 1. 病人または病人らしい者、咳する者に近寄ってはならぬ 2. たくさん人の集まっているところに立ち入るな 3. 人の集まっている場所、電車、汽車などの内では必ず呼吸保護器(*マスクの事)をかけ、それでなくば鼻、口を「ハンカチ」手ぬぐいなどで軽く覆いなさい ・(はやりかぜに)かかったなら 1. かぜをひいたなと思ったらすぐに寝床に潜り込み医師を呼べ 2. 病人の部屋はなるべく別にし、看護人の他はその部屋に入れてはならぬ 3. 治ったと思っても医師の許しがあるまで外に出るな (内務省,143-144) 部分的に認識違いはあるが、 基本的には「マスク着用」「患者の隔離」など現在の新型コロナ禍に対する対処法と同様の認識を当時の政府が持っていたことが分かる。 そして内務省は警察を通じて、全国でこの手の「衛生講話会」を劇場、寄席、理髪店、銭湯などで上演し、大衆に予防の徹底を呼び掛けている。 またマスク励行のポスターを刷り、全国に配布した。 マスクの無料配布も一部行われたというが、現在の新型コロナ禍と全く似ていて、マスクの生産が需要に追い付かなかったという。 ただ失敗だったのは、内務省が推進した予防接種である。 病原体がウイルスであることすら知らない当時の医学は、スペイン風邪の予防に苦肉の策として北里研究所などが開発した予防薬を注射させる方針を採り、接種群と未接種群との間で死亡率の乖離を指摘しているが、これは現代の医学から考えれば全くの無意味な政策であった。 だが、当時の技術ではそれが限界だった。 ・100年前も全面休校 休校イメージ、フォトAC 各自治体の動きはどうだったか。 とりわけ被害が激甚だった神戸市では、市内の幼稚園、小学校、中学校等の全面休校を決めた(速水,198)。 1919年には愛媛県が県として「予防心得」を出した。 人ごみに出ない、マスクを着用する、うがいの励行、身体弱者はとりわけ注意することなど、おおむね内務省の「流行性感冒予防心得」を踏襲した内容である。 学校の休校や人ごみの禁忌など、これまた現在の状態と重複する部分が多い。 そしてこれもまた現在と同じように、各地での集会、興行、力士の巡業、活劇などは続々中止か、または閉鎖されていった。 このようにして、日本各地で猛威を振るったスペイン風邪は、1920年が過ぎると自然に鎮静化した。 なぜか?それは内務省や自治体の方針が有効だったから、というよりも、スペイン風邪を引き起こしたH1N1型ウイルスが、 日本の隅々にまで拡大し、もはやそれ以上感染が拡大する限界を迎えたからだ。 そしてスペイン風邪にかかり、生き残った人々が免疫抗体を獲得したからである。 つまり、 スペイン風邪は突然の嵐のように世界と日本を襲い、そして自然に去っていったというのが実際のところなのである。 残念ながらヒト・モノが航空機という、船舶よりも何十倍も速い速度で移動できるようになった現在、新型ウイルスの伝播の速度はスペイン風邪当時とは比較にならないだろう。 だが100年前のパンデミックと違うところは、私たちの医学は驚くべきほど進化し、そして当時、その原因すらわからなかったウイルスを、私たちは直接観察することが出来、なんであれば人工的にウイルスすら制作できる技術力を保有しているという点だ。 このような状況を鑑みると、100年前のパンデミックと現在。 採るべき方針はあまり変わらないように思える。 すなわちウイルスの猛威に対しては防衛的な姿勢を貫き、じっと私たちの免疫がウイルスに打ち勝つのを待つ。 実際にスペイン風邪はそのようにして終息し、日本は内地45万人の死者を出しながら、パンデミックを乗り越えている。 ウイルスの存在すら知らなかった当時と違って、現在の私達の社会におけるパンデミックは、伝播速度の違いはあれど集落が全滅したり、火葬場が満杯になったりするという地獄絵図には向かいにくいのではないか、というのが正直な感想である。 ・100年前もデマや流言飛語 満員電車イメージ、フォトAC 最後に、スペイン風邪当時の日本で起こったデマや流言飛語の事例を紹介する。 現在ですらも、「57度から60度近いお湯を飲めば予防になる」などの根拠なき民間信仰が闊歩しているが、人間の恐怖の心理は時代を超えて共通しており、当時も様々な混乱が起こった。 とりわけ医学的には無意味な神頼みは尋常ではなく、例えば現在の兵庫県神戸市須磨区にある多井畑(たいはた)厄除八幡宮では、神戸新聞の報道として、「善男善女で…非常な賑わいを呈し 兵庫電鉄は朝のほどから鮓(すし)詰めの客を乗せて月見山停車場に美しい女も職工さんも爺さんも婆さんも十把ひとからげに吐き出す」(速水,198)で、駅から神社まではさらに二キロ程度の山道で、社務所が用意した護符は飛ぶように売れた(速水,同)という。 人ごみを避けろ、と言っておきながら満員電車はOKというダブルスタンダードまで、現在の日本の状況と何ら変わらない。 日本に於けるスペイン風邪の大流行から、私たちは時代を超えた共通項を見出すことが出来る。 そして人間の心理は、100年を経てもあまり進歩がない、という側面をもさらけ出しているように思える。 どうあれ、私たちはスペイン風邪を乗り越えていま生きている。 デマや流言飛語に惑わされず、私たちは常に過去から学び、 「スペイン風邪から100年」という節目に現出したパンデミックに泰然自若として対応すべきではないか。

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