カープ 歴代 監督。 佐々岡監督誕生?そういえばカープ歴代監督でピッチャー出身って・・シーズン30勝をしたあの投手!!

【広島カープ】歴代監督を成績と一緒に徹底紹介!優勝回数最多は古葉竹識監督!

カープ 歴代 監督

広島の歴代監督 初代監督から順に記載します。 出身チームについてはプロチームのみの記載です。 石本秀一監督(1950年〜1953) 生年月日:1897年11月1日 ポジション:投手 出身チーム:大連実業団 最高順位: 4位 戦前、戦後の時代に野球に携わり続けて自身6球団目となる広島カープ初代監督に就任しました。 広島出身で広島商業学校の監督を務めた経験があり、自ら球団に監督を志願したそうです。 白石勝巳監督(1953年〜1960年) 生年月日:1918年4月15日 ポジション:遊撃手 出身チーム:読売ジャイアンツ〜広島カープ 最高順位:4位 初代広島カープ背番号17番のスター選手! 選手の頃から監督業を兼任し、その後正式に監督となりました。 門前眞佐人監督(1961年〜1962年) 生年月日:1917年5月15日 ポジション:捕手 出身チーム:広島カープ 最高順位:5位 助監督も兼任していています。 2年連続Bクラスに終わると退任し、その後テレビの野球解説者として活動しました。 白石勝巳監督(1963年〜1965年) 最高順位:4位 2期目の就任で王シフトといわれる作戦を考えたり話題を作りましたが、優勝することは出来ませんでした。 長谷川良平監督(1965年〜1967年) 生年月日:1930年3月25日 ポジション:投手 出身チーム:広島カープ 最高順位:4位 カープのエースとして活躍し引退後投手コーチの経験を経て監督に就任しました。 補強はあまりせず、チームの選手の力を上げ強化していく方針でした。 根本陸夫監督(1968年〜1972年) 生年月日:1926年11月20日 ポジション:捕手 出身チーム:近鉄パールス 最高順位:3位 選手としては控え捕手でしたが、球界の寝業者と言われる名監督となりました。 万年Bクラスで財政難を抱えるカープを見事3位のAクラスに引き上げたのです。 スポンサーリンク 森永勝也監督代行(1972年6月30日〜オフまで) 生年月日:1934年4月5日 ポジション:外野手 出身チーム:広島カープ〜読売ジャイアンツ 最高順位:最下位 根本陸夫監督が途中退任したため、打撃コーチをしていた森永勝也コーチが監督を務めましたが最下位に終わっています。 別当薫監督(1973年) 生年月日:1920年8月23日 ポジション:外野手 出身チーム:大阪タイガース〜毎日オリオンズ 最高順位:最下位 現役時代史上初のトリプルスリーを達成した選手です。 監督としては勝つ監督というよりは選手を育てる監督でした。 森永勝也監督(1974年) 最高順位:最下位 2期目となる就任です。 後任のジョー・ルーツを広島のコーチとして迎えました。 ジョー・ルーツ監督(1975年4月30日まで) 生年月日:1925年2月18日 ポジション:一塁手 経歴:セントルイス・ブラウンズ 最高順位:解任 アメリカと日本野球の違いにもめてしまったこともあり、球団とも信頼関係を築けず15試合での退任となりました。 しかしチームカラーを赤にして、赤ヘル軍団を誕生させたり、選手のポジション変更し育成したり、 今のような投手ローテの発祥となったりと沢山のものをカープに残してくれた監督です。 野崎泰一監督代行(1975年5月3日まで) 生年月日:1923年7月2日 ポジション:投手 出身チーム:大阪タイガース〜東急フライヤーズ〜広島カープ 最高順位:解任 広島カープの大功労者です。 現役を引退し翌年から広島カープの投手コーチになりました。 代理監督を務めたあとは二軍監督、球団常務、球団代表とフロントで活躍していました。 選手引退後から40年近く広島カープを支え続けた大功労です。 古葉竹識監督(1975年〜1985年) 生年月日:1936年4月22日 ポジション:遊撃手、二塁手 出身チーム:広島カープ〜南海ホークス 最高順位:日本一 カープ史上初のリーグ優勝と日本一へ導いた監督です。 黄金期のカープをで11年指揮をとり、日本一を3回、リーグ優勝を4回達成しています。 現役(2017年現在)日本一を経験している監督は古葉竹識監督だけです。 長きに渡り監督勤め上げ勇退しました。 スポンサーリンク 阿南準郎監督(1986年〜1988年) 生年月日:1937年9月2日 ポジション:内野手 出身チーム:広島カープ 最高順位:1位 広島カープ史上最高の勝率をあげた監督です。 古葉監督からチームを受け継ぎ就任1年目からリーグ優勝を果たしています。 黄金期をコーチとして支え下積みしてからの監督として力を発揮し、就任期間3年間の成績はAクラス入りしました。 山本浩二監督(1989年〜1993年) 生年月日:1946年10月25日 ポジション:外野手 出身チーム:広島カープ 最高順位:1位 広島カープ初の本塁打王。 黄金期に4番バッターとして活躍しミスター赤ヘルと呼ばれた名プレヤーです。 監督就任当初は1位になるなど好成績でしたが、5年目には5位の責任をとり退団しています。 三村敏之監督(1994年〜1998年) 生年月日:1948年9月19日 ポジション:遊撃手、二塁手、三塁手、外野手 出身チーム:広島カープ 最高順位:2位 現役時代に2番ショートで初優勝に貢献しました。 沈んだチーム状況の立て直しを任され、就任一年目でAクラスまで立て直しました。 若手を積極的に起用し、4年連続Aクラス入りを果たしました。 達川光男監督(1999年〜2000年) 生年月日:1955年7月13日 ポジション:捕手 出身チーム:広島カープ 最高順位:5位 現役時代は広島カープの正捕手として活躍しました。 投手陣が崩壊し、不振が続き2連続5位に終わり退任しました。 山本浩二監督(2001年〜2005年) 最高順位:4位 2期目の監督就任です。 低迷したチームの立て直しに尽くしますが結果はでませんでした。 退任後2013年にはWBCの監督をしています。 マーティ・ブラウン監督(2006年〜2009年) 生年月日:1963月1月23日 ポジション:一塁手、三塁手、外野手 出身チーム:シンシナティ・レッズ〜ボルチモア・オリオールズ 〜広島東洋カープ 最高順位:4位 ベースを投げたり、内野手を増やす守備体系を取りいれたりなど話題性のある監督でした。 退場の回数の多さも話題になりました。 選手を守りファンサービスもよかったブラウン監督はとても人気がありました。 野村謙二郎監督(2010年〜2014年) 生年月日:1966年9月19日 ポジション:内野手 出身チーム:広島カープ 最高順位:3位 カープ再建の切り札として監督に就任しました。 優勝を目指し指揮をとりましたが、結果がでず批判を受けることもありました。 しかし2013年には16年ぶりのAクラス入りに導いています。 緒方孝市監督(2015年〜現在) 生年月日:1968年12月15日 ポジション:外野手 出身チーム:広島カープ 最高順位:1位 若手の積極起用や果敢な走塁などを変え優勝を目指します。 2015年は優勝への期待がかなり高まっていましたが、残念な結果に終わりました。 しかし2016年は25年ぶりのリーグ優勝を成し遂げました!選手との信頼関係もバッチリの監督です。 2017年は日本一を目指して指揮をとります。 スポンサーリンク 管理人のつれボーです。 野球をこよなく愛する一般人代表を自負しております。 野球の面白さや魅力を伝えるべく、私、つれボーに加えて複数の野球仲間と共に楽しく記事を執筆しています。 当サイトを通じて野球への興味が更に深まって頂けると大変嬉しく思います。 カテゴリー• 191• 243• 111• アーカイブ•

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佐々岡監督誕生?そういえばカープ歴代監督でピッチャー出身って・・シーズン30勝をしたあの投手!!

カープ 歴代 監督

株式会社広島東洋カープ Hiroshima Toyo Carp Co. , Ltd. 本社所在地 〒732-8501 南蟹屋二丁目3番1号 内 設立 事業内容 プロ野球興行事業等 代表者 () 資本金 3億2400万円 純利益 4億8700万円(2019年12月31日時点) 純資産 90億3500万円(2019年12月31日時点) 総資産 143億8200万円(2019年12月31日時点) 従業員数 120人(2009年12月時点) 決算期 主要株主 松田家関連(42. 勢津子は耕平の妻、元は耕平の長男、弘は耕平の次男で広島社長。 広島東洋カープ公式 YouTube チャンネル 目次• 概要 [ ] 特定の親会社を持たない市民球団を源流としており 、他球団と比較して特異な歴史を有する。 地元・広島の自動車メーカーであるが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「 東洋工業」に由来する。 ただし、マツダは広島東洋カープを「を適用していない」と位置づけており 親会社としての球団への資金提供(赤字補填など)など球団経営への積極関与は行っていない。 その一方で、マツダ創業家である松田家一族の所有株式を全て合わせるとマツダの所有比率を上回り、議決権ベースでは過半数に達する。 歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的にはを行っているという見方もある。 市民が直接株式を保有するという意味での市民球団ではないが、特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせているという意味では今なお市民球団のイメージを有する。 球団の歴史 [ ] 球団創設 [ ] 旧広島市民球場・三塁側より 2004年3月14日(広島対ダイエー〈現ソフトバンク〉)撮影 のの前から広島に球団を作ろうという構想は存在していた。 広島は昔から野球に熱狂的な土地柄。 戦前からや、といった名門校があり、や、などの名選手が輩出した野球どころという下地があった。 正力の二リーグ構想が公に出た4月から 、4ヶ月後の8月中旬、東京支社長・は、東京支社から広島本社に帰る車中で、郷土の有力者、専務・伊藤信之、副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の3名と顔を合わせた。 四人の話題はプロ野球の話に終始。 広島は被爆後の時代が続き、の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が... と四人の意見が一致し、話が一挙に飛躍した。 河口は戦後、カープ誕生の前に広島でプロ野球の興行を手掛けた経験があり 、三人は河口に基本的な計画を立てるように依頼して別れた。 3日後、銀座の東京支社に帰った河口のもとに広島二区選出の・と代表の広島県人・山口勲が訪ねてきて、「谷川さんを中心に、広島にプロ球団を作ろうと思って相談に来たんですよ」と話した。 谷川は当時中で公務からは外されていた。 谷川は元々サッカー選手で野球とは無縁だったが 、山口に助力を要請され 、自身の名誉回復は二の次で、何より「故郷にプロ球団を創りたい」という情熱で動いていた。 先に伊藤らから賛同を得ていたこともあり、話はスムーズに進み、谷川を中心とした青写真作りを開始した。 谷川は実務は河口と山口に任せて、の想を練った。 ブラックベア、レインボー、ピジョン、カープを有力候補としたが、は出世魚であるし、は躍進の姿、は鯉の名産地でが鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、と「広島カープ」と名付けた()。 谷川の要望で、中国新聞社が近く生まれる広島カープの宣伝を一手に引き受けることになり、河口の打診したところ中国新聞社代表取締役・が大賛成した。 9月28日、中国新聞紙上に初めて「 広島カープ Hiroshima Carp 」という五文字が一般にお目見得した。 「チーム名は"鯉" 広島プロ球団誕生か」という見出しで、「チーム名はカープ(鯉)と決定した」と書かれた。 翌9月29日の同紙に「広島市にフランチャイズをおく広島野球クラブ・カープ(鯉)の創設は急速に進み、9月28日午後、谷川昇、築藤鞆一(中国新聞社代表取締役)、伊藤信之(広島電鉄専務)の3氏 連名をもって正式にに届け出が行われた」と書かれた。 11月28日に谷川は代表と会見し、正式にセ・リーグ参加承認の通知を受けた。 河口が出身のため、早大OBのに監督を依頼するつもりでいたが 、中国新聞の記事を読んだの・が「郷里の球団で是非とも最後の花を咲かせたい」と河口に売り込みに訪れ 、郷土チームにうってつけの監督と、一も二もなく12月3日、初代監督に石本の就任が決定した。 この時、石本は「私が大陽の二軍選手をそっくり連れて行く。 チーム作りに心配はかけません」と言うので 、チーム作りは石本に一任した。 石本の監督就任ニュースは大きな反響を呼んだ。 当時の既存チームの主力には広島出身者がたくさんいたため 、広島県民は「みんな帰って来たら強いチームが出来るだろう」ぐらいに考え、選手集めには楽観視していたといわれる。 設立資金は、広島県と広島市、など県内の各市で出すことにした。 本拠地はとした。 核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく 、12月5日にで開かれた球団発会式に参加し石本は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。 大陽ロビンスがから資金援助を受け松竹ロビンスになるために、二軍選手の放出をストップしたからである。 球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。 石本は広島出身選手に「みんな、広島に帰って来い!」と呼びかけ 、既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、、コーチにすると口説いて無理矢理入団させた、投手では、野手では、ら23人を入団選手として発表した。 1950年代 [ ] 、西練兵場跡(現在の一帯)でチーム結成披露式が行われ、ファン約1万人が押し寄せた。 カープ選手紹介の前に、カープ創設に努力したお偉方の祝辞が3時間以上続いた。 人気選手、前巨人の白石勝巳がまだ広島に到着しておらず、石本監督が一番有名であった。 選手は総勢20人にも満たない。 当初遠目にながめていた人たちも選手がお披露目のを始めるとその周囲をグルリと取り囲んだ。 続いてトスバッティングを演じたところ、大受け。 こうして熱烈歓迎を受けて、空前絶後の"貧乏チーム"が誕生した。 この日はら7名の追加選手を発表している。 翌16日にはで新人採用テストが行われ 、この中にいたは即座に石本監督の目に止まり、21日に選手契約を結んでいる。 16日から合宿に入り、西日本重工業広島造船所(現・三菱重工業広島製作所、)の社員寮を宿舎として借りた。 暖かいに行けるはずもないので、合宿所近くのを県の計らいで無料でからを張った。 石本監督は集金旅行(金策奔走)で忙しくて不在の日が多く、助監督が事実上の指揮官であった。 決して高額ではない合宿代も払えず、三菱重工から明け渡し請求を起こされ 、4月に合宿所は(現・)の「御幸荘」に引っ越す。 にのでセ・リーグ開幕戦が行われ、とのこの年から加盟の球団同士の公式戦初試合となったが、5-6で敗れている。 3月14日の戦で打線が奮起して16-1と球団初勝利を挙げたものの、その後チームは著しく低迷する。 11月13日のとのダブルヘッダーで共に敗れ13連敗を記録するなど 惨憺 ( さんたん )たるチーム状況で、この年優勝したには59ゲーム差をつけられた8位(最下位)に沈んだ。 さらに勝率. 299で、両リーグで唯一3割に到達できなかった。 白石勝巳がとしてを受賞した。 この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた。 そのため当初1100万円を見込んでいた入場料収入はチーム成績に比例して落ち込んでいった。 さらに資本金調達については、県民から株式を公募する他、広島県や県内各市からの出資を見込んだ計画であったが、各自治体の予算執行が次年度に持ち越されたため、議会が金を出すのに難色を示した。 当初2,500万円を予定していた資本金は1950年4月の時点でわずかに600万円しかなかった。 5月以降、ようやく各自治体からの出資が相次いだものの、最終的に予定額2,000万円の半分しか集まらなかった。 このため「株式会社広島野球クラブ」が設立できたのは1950年9月までずれ込んだ。 こうして開幕から僅か3ヵ月で経営危機説が流れるようになった。 5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生、2軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみだった。 130~140万円相当のユニフォームや、グローブなど、野球用具一式を運動具店に納入させたものの代金が払えず、その運動具店を倒産させた。 6月25日、セ・リーグ連盟は加盟金300万円の支払いを求めてきたが、これに応じることができなかったため、やむを得ず経営合理化策として給料の支払いが滞っていた2軍選手全員を汽車賃だけ渡して郷里に帰らせている。 さらに7月12日に出身のに「後援会会長」の名目で球団幹部に就任してもらうことで、ようやく連盟からの督促を回避した。 リーグ加盟金300万円は足かけ3年間支払えなかった。 12月7日、選手会は球団に対して「給料の遅配を解消すること」を旨とした要望書を提出し、受け入れられない場合は全選手退団も辞さないと通告した。 これに対して12月26日、球団側は12月分の給料支払いとチーム再建策を選手会に提示し、ようやく選手会も了承した。 年明け早々、セ・リーグ連盟顧問に就任したばかりのが、1月9日付け紙上で、2年目も資本の強化などの経営改善の見込みがないカープとに対して、「われわれは潰そうとしていない、何らかの形で残したいというのが希望だ。 だから広島はの傘下に入って"広島"とか"カープ"の名を残せばいい。 西日本は今年どうしてもやっていけないなら"1年間休めばいい"」などと猛烈に批判した。 球団は前年からの経済的苦境を脱するため親会社を持とうと、まずはに相談を持ちかけ、600万円で球団買収することで話がまとまったものの、「1年間の税金6,000万円のうち600万円を値切ること」を条件に求められ、後援会会長の大蔵大臣に許可を求めたが「国家に仕える身でもあり、まかりならぬ」と却下されてしまった。 続いてに話を持ち込み、こちらも買収に前向きな回答をもらったものの、「公社が球団を持つことに池田大臣の許可を貰うよう」条件を付けられ、結果「特例は認められない」と、またしても却下されてしまった。 最後にはに売り込み、重役会では球団買収が承認されたものの、社長の最終決裁で却下されてしまった。 こうして親会社が決まらないまま2月に入ると、遂に給料や合宿費の支払いができなくなり、からで開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められた。 白石助監督が「旅費がないなら甲子園まで歩いていこうじゃないか。 ワシについて来い。 軍隊時代を思えばできないはずがない」と意気盛んだったが 、3月に球団社長の檜山袖四郎、球団代表代理の河口豪、(後援会会長・の代理)はセ・リーグ連盟から呼び出され、「 プロ野球は金が無いものがやるものではない」「 早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けた結果、、広島市の天城旅館で行われた役員会で当時下関市にチームがあったとの合併が決まり 、その日のが夜のニュースで「広島解散、大洋に吸収合併」と報じた が、役員会に遅れて参加した石本らの説得で合併方針は撤回され、にナインは急行「安芸」で準公式トーナメント大会に出発。 しかし旅館代がなく、選手は甲子園の下の薄暗い部屋で雑魚寝した。 石本は3月16日の紙上で「 いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい」と訴え 、には広島県庁前で 資金集めの構想を発表した。 、前述の準公式トーナメント大会の上阪に帯同していた球団代表代理の、石本秀一監督、球団監査役のは日本野球連盟関西支社においてセ・リーグ顧問と会談し、球団側は合併をせず継続させていく意思を伝えた。 また、具体的な再建方策については、同月24、25日頃に池田勇人後援会長と代表が連盟立会いのもとで協議することとなった。 同15日に鈴木は甲子園球場の選手控え室を訪れ、チーム継続の了承を伝え、「セ・リーグとしては当初の予定通り7球団でペナント・レースのスタートを切る」と語っている。 こうして、セ・リーグ顧問と河口豪球団代表代理との会談でチーム存続が正式決定した。 しかし数日後、連盟側は急遽先述の継続承認の内容を反故にした。 球団側としては、連盟側がそれまでに要求してきた地元広島開催を除く過密なスケジュールを受け入れていたにも関わらず、チームとして安定的に試合を行えるようにさらに600万円の拠出金を要求してきた。 この要求に対して球団側は、15日の鈴木談話と「全くくつがえっている」として、に開催された連盟の代表者会議にも出席しなかった。 この代表者会議欠席がきっかけとなり、セ・リーグは第2節までのカープの公式戦日程を認めないという「日程延期問題」が発生した。 連盟の通告を受けて、球団社長はに広島商工会議所において重役会を開き、「広島としてはあくまで既定方針通りにやってゆく。 檜山社長が上京し連盟首脳と話合う」ことで決定した。 翌31日に檜山は上京し、連盟当局者や在京の広島県出身の有力者にも積極的にあたり、に連盟のセ・リーグ会長と会談し、球団側と連盟側の折り合いがついたことにより 、4月2日に棚上げしていた公式戦の開催を正式決定した。 これらの事情から、この年の広島の公式戦の開幕は他より9日遅れて、4月7日の広島での対戦となった。 石本監督が発案した後援会には職場単位、あるいは個人での入会者が後を絶たず、「おらがチームを潰すな」の純粋な思いで子どもはなけなしの小遣いを、大人は酒代、タバコ代を削って金を出した。 石本監督はシーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回り辻説法、さらには中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた。 また石本や白石は試合後に選手を連れてあっちの町内、こっちの町内へ出向いて講演会をしたり、歌をうたったり、カープグッズ第1号ともいわれる"カープ鉛筆"を売ったりした。 その結果、の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、カープ後援会は正式に発足した。 この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており、本拠地広島総合球場前での酒樽の中にカンパする「樽募金」も合わせ1951年末までに集まった支援金は約440万円(当時)。 その結果、この年130万円の黒字を計上した。 この一件は、通称昭和の樽募金と呼ばれ、放送の『』で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた。 しかし、前年度としてチーム最多の21・72を記録したが契約でもめた末オフに退団し、シーズン途中に巨人に移籍してしまうなど、前年に引き続きペナントレースは苦戦を続け、チーム成績は2年連続の最下位に終わった。 この年は西日本パイレーツがパ・リーグのに吸収合併されたことで、7球団による20回総当り戦の120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日()があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。 特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった。 には、エースの長谷川良平が自由契約選手としてへの移籍を表明する が、翌年のコミッショナー裁定により長谷川の広島復帰が決まっている。 開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされた。 これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれており 、設立より2年連続最下位だった弱小貧乏球団の広島潰しが狙いであった。 開幕試合(3月21日)の松竹戦は3-1で勝利して幸先良いスタートを切ったものの、3月23日の同じく松竹戦から7連敗、5月15日の巨人戦から7連敗、さらに7月15日の大洋戦からは8連敗を喫して、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率. 220)と最下位に沈んでいた。 だが、そこから選手が奮起し、残り試合を24勝34敗1分で乗り切り、シーズン勝率. 316(37勝80敗3分)を達成、処罰を免れた。 との2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、さらに杉浦は防御率でセ・リーグ9位に入ったが、これは球団として初の投手ベスト10入りとなった。 なお、この年からが導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。 これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定化に目途が立つことになった。 、後援会が「松竹の小鶴・金山らを広島へ」を合言葉に1,000万円募金を行うことを決定する。 またこれら動きとは別に、シーズン終了後の代表者会議で勝率3割を割った松竹に合併を申し入れたが拒否されている(最終的には松竹は大洋ホエールズと合併してとなった)。 松竹から(・・)が集団で移籍した。 後援会は外国人選手を獲得するため更に400万円を集め、その結果、選手である銭村兄弟(・)・が入団した。 さらにのファン投票では、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手が選出。 競争になれば大都市には敵わないため、後援会会員は投票最終日に一斉投票を行っており、「集団投票事件」などと批判を浴びた。 なお、球団役員会にて、球団と後援会を1本化し、石本監督は「総監督兼常務取締役」として球団運営に専念し、助監督の白石が選手兼任で監督に昇格することが決定。 5月3日の国鉄戦が石本の最後の指揮となった(試合は7-1で勝利)。 また、1952年から53年はユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。 このユニフォームはから提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。 この年はチームの若返りを図り、前年から7人が退団し、新たに19人が入団している。 また、発足したばかりのに、(広島グリーンズ)が参加した。 この頃になると球団の財政事情は明るくなってきたものの、首脳陣は監督の白石以外にコーチがおらず、シーズンオフには白石が選手をスカウトしたり 、キャンプでは白石自ら外野でボールの球拾いという状況であった。 新婚旅行のため来日していたと夫妻が2月11日広島入りし、広島に4日間滞在。 宮島口(現:)の一茶苑と広島市内の三瀧荘に宿泊し 、やABCC(現:)などを訪問。 12日から2日間にわたり、ディマジオ、ボビー・ブラウン、がでカープナインに野球指導を行った。 シーズンは、開幕7連敗を喫する最悪のスタートとなったものの、9月22日、23日の巨人戦で3連勝するなど後半戦は追い上げて、4位(56勝69敗5分)を確保した。 この年から助監督に、2軍監督にが就任する。 、カープの産みの親である谷川昇が衆議院選挙当選の報を聞きながら脳出血のため急逝する。 、日系2世のが入団。 シーズンは4位(58勝70敗2分)を確保し、長谷川良平が30勝を挙げ、のタイトルを獲得した。 また、この年は球団創設以来の「広島野球倶楽部」の負債が5,635万円まで達してしまい、もはや後援会の手にも負えなくなってしまった。 そこで社長のの提案により、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させて、新たに地元財界の協力を得た新会社を設立することが決定。 、広島野球倶楽部は臨時株主総会を開き、「発展的解消」を決議する。 同日、中国新聞東京支社にいた球団代表の河口豪はスポーツ紙記者から「広島からカープは解散したと通信があったが事実か」と問われた際、「そんなバカげたことはない。 新球場の設計が9分どおり出来ているのに解散はありえない」と芝居を打っての設計図を公表している。 その結果、の第1回新会社発起人会を経て「株式会社広島カープ」(初代社長はの伊藤信之)が発足した。 資本金は500万円(東洋工業、広島電鉄、中国新聞社など13社が出資)。 なお、セ・パ両リーグ理事会では「広島野球倶楽部解散により、選手の拘束力は無くなり彼らは自由契約になった(他球団が獲得できるようになった)」「新会社はリーグ加盟金を支払い直すべき」とパ・リーグから非難の声が上がるが、河口は既にセ・リーグ会長の鈴木竜二と話をつけており、またセ・リーグ理事は6人中4人が河口と同様に新聞出身者であり同情的であったことから、最終的に「 会社の名称変更にすぎない」と押し切っている。 開幕から4連敗を喫するなど序盤戦から低迷し、5位(45勝82敗3分)に終わる。 、広島総合球場で開催された対戦でが起こる。 、地元政官界の六者会談を経て、の建設地が「旧二部隊営庭跡地」(現在の広島電鉄横)に正式決定する。 、地元10社がの建設資金1億6千万円の寄付を広島市に申し入れ、に「旧二部隊営庭跡地」にて、新球場起工式が行われる。 、広島市民球場の完工式が行われ、引き続いて行われた点灯式にはファン1万5千人が詰めかける。 に行われた新球場開幕試合の阪神戦では、初ナイターで集まった大観衆を前に1-15で大敗している。 シーズンは、白石監督の「 闘志無き者は去れ」のスローガンの元、キャンプから猛練習を行った成果が出て、オールスター戦までは32勝26敗と健闘したものの、後半に入って失速し、最終的には54勝75敗1分の5位に終わっている。 広島市民球場が完成した結果、観客動員数が大幅増となり球団財政にゆとりが出来たこともあって大補強を敢行する。 その結果、、、、、、ら、1960年代のチームを支える人材が一斉入団した。 一方で「三羽烏」とうたわれた、、の獲得にも動いたが、彼らは入団の意志は見せなかった。 また、1950年の以来、8年ぶりにコーチを置いた(ヘッドコーチに、コーチに、)。 には、総工費1,700万円をかけた自前の選手寮「三省寮」が完成する。 同月29日には、広島では初となるオールスター戦が開かれた。 シーズンは、4月8日の中日戦から6連敗、同月24日の阪神戦から10連敗を喫するなど前半戦の不調がたたって、5位(54勝68敗8分)に終わった。 シーズン終了後の、がチーム若返り策により引退を表明する。 この年は、新人とトレードを合わせて19人もの補強を敢行する。 その結果、チームの平均年齢が21. 9歳と、当時12球団で最も若いチームとなった。 また広島市民球場(初代)で行われた春のキャンプでは、球団初のピッチングマシンを導入している。 、新しい球団旗を発表。 この球団旗は以降、変更されていない。 の対戦で球団通算500勝を達成。 8月には二軍が初優勝達成。 シーズンは、前年に引き続き5位に終わったものの、勝敗は59勝64敗7分であり、勝率. 481は過去最高であった。 主軸に座ったは、の持つ球団記録21本塁打を塗り替える23本塁打を放っている。 またこの年の観客動員数は862,965人と、12球団中、巨人に次ぐ2位の集客力を見せた。 1960年代 [ ] 、河口豪球団代表が辞任、後任は山本正房中国新聞社社長。 この年、球団創設11年目で初めてシーズンで巨人に勝ち越し(17勝8敗1分)、勝率も5割台を達成(62勝61敗7分)する。 が球団3人目となるシーズン20勝超え(26勝13敗)し、は打率2割6分8厘・21本塁打・64打点の成績を残してチーム3冠王となった。 1953年以来7年間指揮をとった白石監督はシーズン終了直後のに、「チームの地固めは出来た」として退任を発表。 が監督を務めたが、いずれのシーズンも勝率5割を割り辞任。 前年に現役を引退したがコーチに就任。 専任コーチとしては日本プロ野球史上最年少の25歳で就任している。 門前に代わる新監督としてを招聘しようとするが球団役員の意志統一が出来なかったため、球団社長の伊藤信之が辞任。 後任に東洋工業(現・)社長のが就任し、白石勝巳が再び監督となる。 の対巨人戦(後楽園)において、巨人のを抑え込む作戦として白石監督考案のが初めて使われる。 、対大洋戦(川崎)に勝利し、球団初の単独首位に立つが、翌日には首位陥落で一日天下に終わり 、このシーズンは首位巨人と31ゲーム差の5位で終わる。 、広島総合球場で開催された対阪神戦でが死球を受けたため一部のファンが暴徒化。 一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の怪我を負う事件が発生。 そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。 1963年から1965年7月まで、白石が2度目の監督を担当、1965年7月からはが監督を務めた。 東洋工業(現・)社長のが筆頭株主となりオーナーに就任。 がオーナー代行に就任。 球団名を 広島東洋カープに改称。 市民球団としての体裁を保ちつつも、東洋工業をメインスポンサーとしつつ、大半の株を松田家が持つ同族経営球団となる。 が監督に就任。 根本はトレードでベテランのを獲得する。 大打者であった山内を選手たちに見せることで、チームを活性化させるのが狙いだった。 阪神との開幕3連戦に連勝し首位でスタートするも、5月に7連敗で一時3位に転落。 しかし6月には首位に返り咲き、12連敗がスタートする7月初めまで守った。 ・両投手、野手では山内の活躍もあって3位となり、球団創立19年目にして初のAクラス入りを果たした。 球団創立1年目()からまでの18年連続Bクラスは、当時の日本記録で、現在でもセ・リーグワースト記録。 なおシーズン中に12連敗してのAクラスはプロ野球史上唯一。 前年とは一転し、8月に11連敗するなどで最下位に終わる。 根本時代は、当時巨人がを迎えていることもあり、成績こそ振るわなかったが、投手で、打者ではとのにら、後の「赤ヘル軍団」フィーバーを巻き起こし中核を成した選手の台頭を促した。 シーズン後、当時の監督であるとチーム強化の方針をめぐっての意見の対立から上田利治コーチが退団している。 1970年代前半 [ ] 、 2年連続でシーズンを勝ち越し4位と健闘。 1970年10月19日より衣笠祥雄の連続試合出場が始まっている。 11月15日にオーナーが死去、後任オーナーには、オーナー代行のが就任。 開幕から不振が続いて根本はシーズン途中で監督を休養、打撃コーチが代行を務める。 この年は、最下位に終わる。 が監督に就任する。 開幕から6月頃までは大洋とともに首位争いの主導権を握り、前半戦こそ2位で折り返したが後半戦は急失速し最下位。 しかし、結果的にリーグ優勝しV9を達成した巨人と最下位の広島までのゲーム差が6という大混戦だった。 チームは最下位に終わるもが最多勝・最多奪三振を獲得。 しかし、に交通事故に遭い、あわや失明の重傷を負う。 同年オフ、監督・森永勝也の退団および打撃コーチ・の次期監督就任を発表。 1958年に胸ロゴが赤い縁取りとなったユニフォームを着用していたが、1973年に、ユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入る。 この「赤」は、後にチームカラーとなる。 ルーツ、古葉監督時代 [ ] 球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任。 「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて球団に赤を基調とする新ユニフォームを提案するが、既にシーズン用のユニフォームは出来上がっており変更可能な帽子・ヘルメットの色だけ紺色から赤になった。 しかし開幕早々の4月27日の対阪神戦においての投球判定を巡って猛抗議、試合のボイコットを起こす騒動となった。 この時、重松良典球団代表が試合続行を指示したため、試合中の介入に不満を持ったルーツは4月30日に監督辞任、5月2日までの代行にコーチの野崎泰一が就き、翌5月3日がコーチから監督に就任。 この年のの第1戦(甲子園)ではとが共に1試合2本塁打を記録するなど、「赤ヘル旋風」を巻き起こした。 中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、の対中日戦(広島市民)では乱闘事件があったものの 、の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目で初優勝を達成した。 この時の先発は外木場義郎で、ウイニングボールを捕ったのはレフトの水谷。 結果的に2位中日と4. 5ゲーム差、3位阪神と6ゲーム差と大混戦だった。 長きに亘る低迷で「太陽が西から昇っても広島は優勝できない」とまで揶揄され、身売りの危機もあったがようやく「お荷物球団」を返上した。 ではと対戦するも4敗2分で敗退。 この年のとなった山本浩二や衣笠祥雄、の、盗塁王のらの活躍が目立った。 優勝後、で行われた優勝パレードではファン約30万人を集めた。 この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破した。 またこの年は春にがからまで延伸開業し、チームの遠征時の列車乗車時間が大幅に短縮された。 これを振り返って、外木場は「カープが優勝できたのは新幹線のおかげ」とも語っている。 経営面では創設以来の累積赤字をこの年解消している。 が20勝を挙げ最多勝と。 巨人・阪神との優勝争いに加われず当初は山本浩二の不振もあって低迷。 9月は11連敗も記録。 最後はかろうじて3位に。 5位に終わった。 、がより移籍。 南海の監督だった(古葉は南海でプレーし野村と親交があった)が古葉に「(江夏は)まだ使えるよ」と太鼓判を押したという。 が20勝。 3年連続同一チームから最多勝投手を輩出。 セでは以降なし。 一方前年の最多勝池谷投手はシーズン最多被本塁打48(歴代1位)の記録も。 カープ打線が最も破壊力を発揮したシーズンで、この年のチーム205本塁打は日本プロ野球記録を更新。 44本の山本浩二や、40本の、33本の、30本の衣笠祥雄など4人が30本以上を記録した。 また692、713は、を使用して本塁打の増えたからを除いてのプロ野球最多得点であった。 しかし前半戦は苦戦が続き、首位巨人に10. 5ゲーム差をつけられ、5位に沈む。 後半戦は投打がかみ合い、31勝13敗7分と驚異的な追い上げを見せるも、巨人を逆転して優勝したと5ゲーム差で、何とか3位を確保するにとどまった。 開幕前から独走が予想されたが、開幕は4連敗スタート、序盤は苦戦が続いた。 しかし、衣笠の死球による亀裂骨折や、の33試合連続安打でチームに勢いが付き、8月になり一気に首位に立つと4年ぶり2度目のリーグ制覇。 では、を4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する。 第7戦では、江夏がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け日本一に導く( )。 この年は前年とは打って変わり序盤から首位を独走し続け、2位以下に大差をつけて球団初の連覇を達成。 勢いそのままに、近鉄を4勝3敗で下し、2連覇を成し遂げた。 同年オフ、江夏豊とのエースとの大型トレードが成立。 この年は、序盤から苦戦が続き、期待の高橋直樹がわずか2勝、一時は最下位に沈むなど、8月終了時点で46勝48敗6分の4位と、首位巨人に12. 5ゲーム差をつけられる。 9月に15勝3敗と驚異的な追い上げを見せるも、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わり、3連覇を逃す。 山本が無冠に終わるなど打線が振るわず、結果は4位に終わる(1980年代唯一のBクラス)が優勝した中日に11勝9敗6分と勝ち越した。 オフにテコ入れとして、、らに戦力外通告、をへトレード、と・との大型トレードを敢行するなどV戦士放出を敢行。 が初の最多勝、が活躍し、球団初のを獲得。 7月終了時点まで巨人と首位争いを演じるも、8月に4連敗を2度喫するなど5勝14敗1分と失速、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わる。 4月に12連勝を記録するなど、14勝2敗2分と開幕ダッシュに成功する。 その後、中日の猛追にあい、首位を明け渡すと、8月終了時点で中日と1ゲーム差の2位となる。 しかし、9月6日の阪神戦に勝利し、首位に返り咲くと、そのまま逃げ切り、4年ぶりのリーグ優勝。 山本、衣笠に加え、、ら投手が活躍。 この年75勝を挙げたが、これは2016年に更新されるまで球団シーズン最多勝記録だった。 西武から復帰のが最優秀防御率。 が新人王。 では阪急ブレーブスと対戦し、4勝3敗で3度目の日本一。 サウスポーのがブレイクしオールスター前までに9勝を挙げるも後半不調に陥る。 2年目のが新人王。 高橋慶彦が5年ぶり3度目の盗塁王。 8月まで阪神、巨人と優勝争いを演じていたが、9月に阪神との直接対決に連敗し、7連敗を喫するなど失速し、最終的には優勝した阪神と7ゲーム差の2位に終わる。 この年優勝した阪神には15勝11敗、同じく優勝争いをした巨人にも14勝12敗と勝ち越したものの、阪神が17勝6敗3分と大きく勝ち越した大洋に対し10勝14敗2分と負け越したのが響いた。 古葉がこの年限りで監督を勇退した。 同年、がオーナー代行に就任している。 阿南監督時代 [ ] が監督となり、阿南は「『山本浩二監督』実現までのつなぎ」と言われたが 、就任1年目にリーグ優勝を果たす。 レギュラーが固定され不動のオーダーと言われた。 北別府が投手部門のタイトルを総なめ。 が新人王。 ではと対戦し初戦引き分けの後3連勝するも、第5戦で津田が投手の工藤公康にサヨナラタイムリーを打たれて敗れたのをきっかけに流れが変わり、第8戦まで縺れ込んだものの3勝4敗1分で敗退となった。 前年とこの年はチームに外国人選手は在籍しておらず、スターティングメンバーも「純国産打線」であった。 また、この年限りで長年チームの4番を務めてきた山本が引退し、1990年代前半までチームは4番不足に悩まされるようになった。 、衣笠がの2130連続試合出場の世界記録(当時)を更新、衣笠はこの年の最終戦までに2215まで記録を伸ばし現役を引退した。 4番打者は5月末までは、その後小早川、もしくはが務めた。 が首位打者、ランスが本塁打王を獲得、優勝した巨人に11勝10敗5分と勝ち越しするも3位に終わる。 2年連続の3位に終わる。 正田が2年連続の首位打者、大野が防御率1. 70で最優秀防御率と沢村賞を受賞、阿南が監督を退任した。 同年オフ、山本浩二が監督に就任。 第1次山本監督時代 [ ] 新外国人の、が加入。 アレンが故障で離脱するもロードン、小早川、もしくはでクリーンナップを形成した。 津田がに輝いたが優勝した巨人と9ゲーム差の2位に終わる。 がトップバッターに定着し盗塁王に輝く。 2年目のアレンが好調も新加入の、が奮わず開幕直後から巨人に独走を許し、結果的に優勝した巨人と22ゲーム差離され2年連続の2位に終わった。 この年リリーフ強化のために山本監督は津田と大野のダブルストッパー構想を打ち出した。 しかし、4月に津田が戦線を離脱し闘病生活に入る(この年の11月津田は現役引退)。 津田の穴を埋めるべく大野が一人抑えとしてリリーフを支える。 野手陣では野村謙二郎が高打率、盗塁王を獲得してチームを 牽引 ( けんいん )。 しかしチーム全体長打不足で絶対的4番が不在(チーム最多本塁打はに達していないの11本)の中、勝負強いやなどが少ないチャンスの中奮闘した(優勝を決めた試合も初回に西田のタイムリーの1点を9回まで守りきった)。 2年目のがレギュラーに定着、江藤も三塁手として出場し長打力の片鱗を覗かせた。 投手陣は2年目のが、最多勝、最優秀防御率、沢村賞にが最多奪三振、北別府が最高勝率となった。 大野が最優秀救援投手を獲得するなど投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。 投打にわたりチームのほとんどの選手を一軍起用する文字通り全員野球だった。 リーグ優勝が本拠地だったので、ビールかけなど祝勝会は広島市民球場のグラウンドでファンが観客席にいる中で行われた。 では西武と対戦し、川口が4試合に奮投するなどし先に王手をかけたが、最終的には3勝4敗で敗退した。 チームはこの年以降、まで優勝から遠ざかることとなった。 この年はヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差と例年に見ぬ大混戦で、優勝争いはヤクルト・巨人・阪神との四つ巴となった。 優勝したヤクルトとはわずか3ゲーム差であったが、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずの4位 となったため、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。 北別府が200勝を達成、が引退した。 7月20日、津田が脳腫瘍のため32歳で死去した。 が初の本塁打王を獲得するも、前年97試合本塁を守っていた達川の引退による捕手の急な若返りの影響から捕手陣と投手陣がかみ合わず崩壊。 前半戦は4月11勝4敗と好スタートしたが5月に8勝15敗となったが不調の投手陣を打撃陣がカバーして6月7月と何とか5割前後を保っていたが、打撃陣に故障者が続出した後半戦は9月には25年ぶりの12連敗を喫するなど5勝19敗で急失速し10月も6勝13敗、チームとして1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落、山本監督は責任を取って辞任した。 山崎が引退、山本の後任監督にはが就任した。 三村監督時代 [ ] 新任の三村監督は前年崩壊した投手陣を再編し主に中継ぎ投手だった、を先発に抜擢し、紀藤は16勝5敗で最高勝率を獲得した。 近藤は巨人キラーとして活躍しシーズン11勝を挙げている。 野手陣では控えだった、、等を積極的に起用、一定の成果を残した。 前年苦しんだ捕手もが・ベストナインを獲得する活躍をみせた。 一時期は最下位から10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し3位に終わった。 オフにが巨人に移籍、北別府が引退した。 この年のドラフト1位とカープアカデミー出身が大活躍した。 しかし、主軸の前田が序盤戦でアキレス腱断裂の大怪我を負い、抑えの大野も不調でシーズン途中先発に回り、開幕投手を務めた佐々岡が抑えに回る等落ち着かない状況だった。 チェコが15勝、山内が14勝で新人王、野村が3割30本30盗塁(のタイトルも取った)のを達成した。 江藤が2年ぶりの本塁打王・初の打点王、緒方が規定打席不足ながら初の盗塁王獲得し投打に目立った活躍をしながら怪我人や不調者が相次ぎ駒不足故に勝負どころで勝てず、一時は2. 5ゲーム差に迫ったが首位ヤクルトの独走を許し6. 0ゲーム差の2位に終わった。 チーム打率. 281の打線とダイエーからテスト入団した、5年目のが大活躍で前半戦を首位で折り返すも、後半戦主砲の江藤が負傷でシーズン復帰が絶望、エース紀藤が後半6連続先発失敗と前年同様勝負どころで怪我人・不調者が出てしまい最大11. 5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、最終的には中日にも抜かれ3位で終えた。 江藤が、緒方が2年連続の盗塁王、が打点王を獲得した。 野手陣では江藤が前年の大怪我の影響からか打撃守備に精彩を欠き、正捕手の西山も開幕早々怪我でリタイアした。 緒方が3年連続盗塁王、ロペス2年連続打点王、他のレギュラー陣も数字は残したが3年連続で勝負どころで打てなかった。 投手陣は前年合計41勝した山内、紀藤、加藤、山崎が合計で9勝に終わった(山崎は未勝利)が、代わりにこの年のドラフト1位の、ドラフト2位の、3年目の、8年目のが奮闘した。 澤崎が新人王を獲得、横山がリリーフで10勝、黒田が6勝、高橋英樹が苦しい8月に4勝を挙げた。 が42歳で史上最年長ののタイトルを獲得したものの順位は3位ながら中日以外の4球団に負け越して貯金は作れず、この後貯金を作ってのAクラス入りは2014年まで達成できなかった。 新外国人の、この年のドラフト4位のが活躍。 前田も首位打者まで後少しの大接戦を繰り広げるが、5月頭までは好調だったがゴールデンウィークが終わる頃にはここまで支えていた投打の主力選手が軒並み不調・怪我人が出だし選手層の薄さから負けが込みだし、最終的には5球団全てに負け越しながらも借金15で5位に終わった。 また、この年はでの試合は10戦全敗に終わった。 シーズン後に三村監督が退任、三村の後任監督はが就任した。 この年限りで大野、正田が引退した。 達川監督時代 [ ] 伝統の猛練習でチームの底上げを図るも慢性的な戦力不足の結果、99年は6月に13連敗、その後も連敗を繰り返し、この年ノーヒットノーランを達成した佐々岡以外全滅状態の投手陣、金本が自己最多本塁打を記録するも全体的に低調の打線 、5位に終わり、チーム防御率は3年連続リーグ最下位だったが優勝した中日には唯一、14勝13敗と勝ち越した。 99年オフにはFAで巨人に移籍した。 また、引退直後から就任していた大野投手コーチと正田守備走塁コーチ、8年ぶりに復帰したヘッドコーチも1年限りで辞任した。 00年は3年連続の5位に終わり達川監督はわずか2年で辞任した。 第2次山本監督時代 [ ] 山本が8年ぶりに監督として復帰した。 しかし、チーム成績は2001年は5年ぶりに勝ち越し、勝率3位ながら勝利数で横浜を下回り4位に終わった が巨人には6年ぶりに、阪神には5年ぶりに勝ち越した。 2002年、2代目オーナーが死去し、3代目オーナーにオーナー代行のが就任する。 からまで3年連続の5位(2004年は6位横浜とゲーム差なし)。 元大洋4番・をチーフコーチに招聘し、が中軸打者に成長する。 一方でが2002年オフにはFAで阪神に移籍する。 2003年では阪神が18年ぶりの優勝を果たしたため、広島は2003年から2015年までセ・リーグの中で最も優勝から遠ざっているチームとなった。 2004年にはが首位打者・最多安打・ベストナインを獲得している。 2005年には投手陣再生の切り札としてコーチを招聘、新井が本塁打王を獲得し、エース格のを抑えに転向させるも初めてのでの失速や投手陣の不調が響いて最下位に転落した。 この年のシーズン終了後に山本監督が辞任、2000本安打を達成した野村も現役を引退した。 ブラウン監督時代 [ ] ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるが監督に就任。 戦力補強はチームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を図った。 キャプテンは野手陣・、投手陣・が就任。 開幕戦から4月11日の巨人戦まで1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。 しかし、その後も波に乗れず、黒田以外の先発投手が期待に応えられずに借金を増やし5位に終わった。 キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田であった。 交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割を維持していた。 このシーズンからセ・リーグでは初となるプレーオフ制度()が導入され、進出を目指したが、交流戦で最下位に沈み優勝争いから脱落。 最終順位は前年と同じ5位に終わったが阪神には6年ぶりに、ヤクルトには7年ぶりに勝ち越した。 課題の投手陣では黒田以外にもが先発として一定の成績を残したものの3番手以降が続かず、守護神・がたびたび救援失敗するなど中継ぎ陣も安定感を欠いた。 チーム防御率もリーグワーストの4. 22に終わり、課題を克服することはできなかった。 では中日(セ・リーグ2位からCSを突破)が53年ぶりに日本一となったため、広島は2013年で初めて日本一となったを含む12球団の中で最も日本一から遠ざっているチームとなった。 シーズンオフに新井と黒田が宣言し新井は阪神に、黒田は大リーグ・に移籍した。 投打の柱を失った広島は思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。 苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、対巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。 若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に7年ぶりの4位となった。 延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、をチームで受賞した。 この年から、広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。 本拠地も旧・広島市民球場から「(通称・マツダスタジアム)」に変更した。 オープン戦の最中にの参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。 シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く、低迷状態に陥り、対中日戦では13連敗で球団記録を59年ぶりに更新した。 しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0. 5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位に終わる。 Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定し、ブラウンは楽天の監督へ移籍した。 この年、が現役引退している。 ブラウンの後任にOBの野村謙二郎が監督に就任した。 チーム勝ち頭であったが残留目前から一転して退団した。 野村監督時代 [ ] 動画 広島東洋カープの シーズンに入ると大竹、セットアッパーの、守護神・永川が故障で離脱、4年目のが最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠に輝き孤軍奮闘したが、チーム防御率は前年から1点以上悪化するなど、投手陣が崩壊。 また攻撃ではが盗塁王に輝くなどチーム盗塁数はリーグ最多だったが、主砲・栗原が故障で離脱、前年3番のや新戦力のなど主力が打撃不振で得点に結びつかず、その結果、対巨人戦で8連敗を含む6勝18敗、対中日戦では昨年に続き11連敗記録するなど8勝16敗、対阪神で9勝15敗と3強に大きく負け越したことが影響し、ヤクルトを含む上位4チームに大きく離され1度も3位争いに加われずに2年連続の5位となった。 の影響で開幕が当初の3月25日から4月12日に変更となり、開幕直後は不振の前田健に代わり新加入のとに新人の、打撃では4年目のが活躍し、一時は首位に立つなど2位で交流戦を迎えたがその交流戦ではリーグワーストの50イニング連続無得点、球団ワーストの4試合連続完封負けと打線が沈黙し、交流戦を最下位で終えリーグ順位も5位に急降下、前半戦を5位で終える。 後半戦に入ると、7月までわずか3本塁打の栗原が8月だけで9本塁打、25打点と活躍しを獲得、チームも当時首位を走っていたヤクルトの急失速もあり、8月終了時点で首位と3. 5ゲーム差の3位に浮上した。 栗原は9月も好調を維持し、広島の打者として初めて2か月連続で月間MVPを獲得したがチームはサファテ、と救援陣の相次ぐ故障離脱などで6勝16敗1分けと大きく負け越しAクラス争いから脱落した。 10月8日にはBクラスが確定され、結果は3年連続の5位に終わる。 中日との開幕3連戦は2敗1分としたものの、巨人との本拠地での開幕戦では1988年以来の3連勝での対戦で前田健がを達成するなど投手陣が球団新記録となる39回無失点 もあり、4月8日に一時首位に立つものの、その後は失速し4月を11勝11敗の5分とした。 4月25日に栗原が離脱するなど故障者が続出、交流戦は10勝11敗3分の6位とし7月16日に5割復帰するなど、交流戦以降14勝7敗で前半戦を1997年以来の3位で折り返す。 8月は5割で3位をキープしたものの、9月に入り15日から25日にかけて8連敗するなど6勝17敗1分と負け越し 、9月29日の対阪神戦(甲子園)で敗れたことで、Bクラスが確定している。 最終的には首位巨人と26ゲーム、3位ヤクルトとは6. 5ゲーム差の4位で終わっている。 なおこの時期を境に後に連覇に貢献する鈴木誠也、菊池涼介、丸佳浩らが入団、台頭し始め、が梵以来新人王となり、平成生まれでは初の受賞となった。 3月、オーナー代行に松田一宏が就任。 開幕対巨人3連戦で1分2敗に終わり、前年から続く東京ドームでの連敗記録(引き分けを挟む)を10に更新したのを含め 、2008年以来5年ぶりの開幕から4連敗とつまずく。 4月13日に、前田健太がでは2010年開幕戦以来となる勝利を挙げようやく勝率5割に戻すが、同じ試合で5試合連続2桁三振のリーグタイ記録を作るなど 必ずしも調子は上向かず、同月18日の試合終了後に2度目の勝率5割となり、翌19日に借金生活に戻って以降、レギュラーシーズン終了まで一度も勝率5割に戻ることはなかった。 交流戦は11勝13敗で西武と同率の8位。 中日、DeNAとの3位争いとなるが、前半はオールスター直前の試合に敗れ5位で折り返す。 後半戦はに3位に浮上 してからも、引き続き中日、DeNAとの3位争いとなるが、からにかけて4年ぶりの7連勝を記録 し、下位との差を広げた。 なお、この連勝中のに4位中日の自力CSの可能性が消滅した。 、対中日戦(ナゴヤドーム)に勝利し、CSクリンチナンバーを2 として迎えた翌の対中日戦(ナゴヤドーム)に2対0で勝利し、16年ぶりのAクラスと球団史上初の進出が決定 、10月3日の対中日戦(マツダ)に3対5で敗れ、12年連続シーズン負け越しとレギュラーシーズン3位が確定した。 2位の阪神とのCSファーストステージ(甲子園)は2連勝でファイナルステージ進出を決めた が、巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)では3連敗でCS敗退が決定 した。 、が現役を引退した。 前年に続き巨人と阪神との優勝争いとなるが、の対阪神戦(マツダ)に敗れ、巨人の優勝が決まったが同時に広島の2年連続進出も決定した。 その後、阪神との2位争いとなったが、のシーズン最終戦の対巨人戦(マツダ)に敗れ、2年連続3位が確定した (なお貯金を作ってのシーズン終了は2001年以来13年ぶり、貯金を作ってのAクラス入りは1996年以来18年ぶりである)。 、野村謙二郎が監督辞任を球団に申し入れ、了承された。 阪神とのCSファーストステージ(甲子園)では、第2戦で延長12回表に0対0とされた時点で阪神の勝ち上がりが決定し、0勝1敗1分でCS敗退が決定。 に野村の後任に野手総合コーチのの就任が発表された。 11月14日に阪神から自由契約となった新井貴浩 、12月27日にからFAとなった黒田博樹 が広島に復帰した。 緒方監督時代 [ ] 序盤は一時最下位に沈むなどBクラスに低迷、特にリリーフ陣の救援失敗が多発した。 、対DeNA戦に3-1で勝ち、球団通算4000勝を達成 、交流戦は9勝9敗で7位に終わった。 交流戦明けには一時Aクラスの3位に立つも、結局5位で前半戦をターン、それでもこの年のセ・リーグは混戦だったこともあり、首位のDeNAとは2ゲーム差であった。 後半戦は巨人・阪神・ヤクルトを追い、には借金を完済して勝率を5割まで上げるものの 、その後も貯金を作ることはできずの対巨人戦に敗れたことでリーグ優勝の可能性が消滅した。 その後は阪神とのCS進出争いとなったが、、勝てばCS進出となる対中日戦(シーズン最終戦)に敗北したことで3年ぶりのBクラス(4位)が確定した。 尚、先発投手の勝ち星はリーグトップの57勝を挙げ勝率でもトップだったが、救援勝敗は12勝20敗でこれはセ・リーグの救援勝率では最下位であり、12球団でも11位の成績で課題の残るシーズンとなった。 オフに前田健太がを受賞した後 、でへ移籍。 今期加入した外国人はの他はパッとせず全員が退団。 このうち、は2016年途中にDeNAに移籍している。 中日を自由契約となったを獲得した。 サヨナラホームランを放ちダイヤモンドを一周する鈴木誠也(2016年6月17日 マツダスタジアムにて)1点差負けが20度以上あった昨年から前田のメジャー移籍で戦力低下が不安視されたが、3・4月に16勝12敗と好スタートを切って上位をキープすると、交流戦は3位でセ・リーグ唯一の勝ち越し。 1番・田中、2番・菊池、3番・丸の所謂 タナキクマルと言われる打順が定着すると、鈴木誠也が2試合連続サヨナラホームランを含む3試合連続決勝ホームランを放ち交流戦で3位に導いた。 交流戦最後の6連戦から11連勝を飾って6月以降は首位を独走し、9月10日の対巨人戦に勝利して25年ぶりのリーグ優勝を達成した。 クライマックスシリーズでは初進出(3位)のDeNAと対戦。 4勝1敗(アドバンテージ1勝を含む)で日本シリーズ出場権を獲得した。 しかし、日本シリーズではと対戦し広島で連勝したものの、セ・リーグ代表チーム6連敗 中だった流れを止められず、この年も交流戦では勝ち越した筈の敵地・で3戦全敗。 3番手以降のピッチャーが踏ん張れずに第3戦以降全て敗戦投手となって 2勝4敗で敗れ、32年ぶりの日本一とはならずマツダスタジアムで胴上げを見守る結末となった。 特に第6戦ではが4-4で迎えた8回に、、に3本の単打を浴びると、110打点と2度目の打点王を獲得したに押し出しの四球、5番手投手のにセンター前タイムリー、39本と本塁打王を獲得したに満塁ホームランを浴びて独り相撲となった。 黒田博樹、、が現役を引退した。 リーグ優勝後の胴上げの様子(2017年9月18日 阪神甲子園球場にて)前々年の2015年がBクラス(4位)であったため当年に開幕権はなかったが、開幕権を保有していた阪神が返上したため開幕戦をマツダスタジアムで迎えることとなった。 その開幕戦こそ落としたものの、その翌日から10連勝(1分けを挟む)。 5月6日の阪神戦で9点リードした状態からの逆転負けを喫した。 交流戦はソフトバンクと並ぶ勝率1位で、ソフトバンクとの直接対戦成績が1勝2敗であったことにより2位。 公式戦は5月に2位となるものの6月以降は首位を独走。 9月18日に甲子園球場で阪神に勝ちリーグ優勝を決めた。 なお、2軍も9月26日にで阪神に勝利しウ・リーグ優勝を決めた。 2年連続でリーグ優勝を収めたが、クライマックスシリーズではレギュラーシーズンで唯一負け越していたDeNAに2勝4敗(アドバンテージ1勝を含む)で敗退し、日本シリーズ進出はならなかった。 リーグ優勝後の胴上げの様子(2018年9月26日 マツダスタジアムにて) この年も開幕カード3連勝と好スタートを切ると4月24日以降は一度も首位を譲ることなく独走した。 5、6月の交流戦こそ負け越したが、リーグ戦再開後も好調を維持し続けた。 9月5日にベテランの新井が今季限りでの引退を表明した後に6連敗するなど一時調子を落としたが優位は変わらず、に球団史上初のリーグ3連覇、9度目の優勝を達成した。 セ・リーグの3連覇は巨人に次いで史上2球団目。 本拠地での優勝は以来27年ぶり、2009年開場のマツダスタジアムでは初となった。 クライマックスシリーズではシーズン3位の巨人と対戦。 4勝0敗(アドバンテージ1勝を含む)で昨年の雪辱を果たし日本シリーズ出場権を獲得した。 との日本シリーズではに6度も盗塁を阻止される等セ・リーグトップの95盗塁にものを言わせた機動力を完璧に封じられたのに加え、アウェー5連敗中(1991年当時ので2連敗、2016年の札幌ドームで3連敗)の敵地・でこの年も3戦全敗しマツダスタジアムに戻っての第6戦で0-2で敗れまたしても日本シリーズ敗退、2年前の北海道日本ハム同様マツダスタジアムに戻っての第6戦で相手の胴上げを見守る結末だった。 、が現役を引退。 がFA宣言し5年25億円の大型契約を用意した巨人へ移籍 、がとの交換トレードで楽天へ移籍した。 外国人選手では来日7年目となり、外国人選手在籍年数の球団記録を更新した、入団から3年間セットアッパーとして活躍した、制球難に苦しみ、一軍での登板がわずか1試合に終わった来日1年目のと契約を更新せず、退団となった。 、丸が移籍した巨人から人的補償でを獲得。 開幕後は丸の抜けた穴や大瀬良、田中の不調で負け越す等しばらくは下位に低迷していたが、5月には20勝で球団の月間勝利記録を更新と復調し、交流戦前には首位に躍り出た。 しかし6月3日から始まった交流戦に入ると2勝1敗と勝ち越した楽天以外のチームには全て負け越し て5勝12敗1分けと再び負けが込み、交流戦明けにかけて引き分けを挟んで11連敗と首位から陥落し、オールスター前には3位で終える。 その後は一旦持ち直し、一時は首位巨人に1ゲーム差まで詰めるも、奪回する事は出来ず、8月にはバティスタがドーピング検査で陽性反応が出た事が発覚し、9月3日から半年間の出場資格禁止を余儀無くされた。 9月になると負けが増え、バティスタが出場停止でいなくなった残り試合は7勝9敗と失速し9月19日のDeNA戦で敗れた事で4連覇の夢が潰え、同時に猛迫してきた阪神にゲーム差を縮められ、レギュラーシーズンは先に3位で終えた。 しかし6連勝した阪神に抜かされたのに加え、27日に行われた最終戦のホーム・中日戦で1-4で敗れて自力で4年連続のクライマックスシリーズ進出を決める事が出来なかったのも祟り4位に転落し、4年ぶりのBクラスが確定した。 これを受け、監督の緒方が辞任を表明。 後任に一軍投手コーチのが就任する事が決まった。 所属選手・監督・コーチ [ ] 「」も参照• リーグ優勝:9回• (1975年、1979年 - 1980年、1984年、1986年、1991年、2016年 - 2018年)• クライマックスシリーズ優勝:2回• (2016年、2018年)• 日本シリーズ優勝:3回• (1979年、1980年、1984年)• Aクラス:25回• (1968年、1975年 - 1976年、1978年 - 1981年、1983年 - 1991年、1994年 - 1997年、2013年 - 2014年、2016年 - 2018年)• Bクラス:45回• (1950年 - 1967年、1969年 - 1974年、1977年、1982年、1992年 - 1993年、1998年 - 2012年、2015年、2019年)• 最下位:10回(1950年 - 1951年、1963年、1967年、1969年、1972年 - 1974年、1993年、2005年)• 最多勝:89勝(2016年)• 最多敗:96敗(1950年)• 最多引分:18分(1978年)• 最高勝率:. 633(2017年)• 最低勝率:. 299(1950年)• チーム最多連勝:12(1984年4月8日 - 4月22日)• チーム最多連敗:13(1950年11月3日 - 11月14日、1999年6月25日 - 7月13日)• 連続Aクラス入り最長記録:9年(1983年 - 1991年)• 連続Bクラス最長記録:18年(1950年 - 1967年、における1978年 - 1997年の20年に次ぐ日本プロ野球史上第2位) その他の記録 [ ]• 最小ゲーム差 3. 0ゲーム(1992年)• 最大ゲーム差 59. 0ゲーム(1950年)• 最多本塁打 205本(1978年)• 最少本塁打 29本(1952年)• 最高打率. 284(1978年)• 最低打率. 213(1956年)• 最高防御率 2. 62(1959年)• 最低防御率 5. 20(1950年)• 1イニング最多四死球10四球(1978年7月6日、対戦2回表に記録)内訳:、、各2四球、、、、各1四球• 50イニング連続無得点(2011年5月26日、対の5回 - 6月3日、対の6回)セ・リーグ記録• 1イニング最多失点 15得点 (2009年6月11日対6回裏)プロ野球記録 永久欠番 [ ]• 3 (1988年 - )• 永久預かり [ ] カープではに準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。 この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。 20(1995年 - 2002年) 1976年から1994年までが着用。 2002年のドラフト自由枠で入団したに与えられた。 永川が2019年シーズン限りで現役引退したため、2020年以降は再び空き番となる。 7(2006年 - 2012年) 前任者は。 2012年のシーズン終了後にに与えられた(背番号13から変更)。 なお、野村は2010年シーズンからの監督就任に際し、背番号は「77」とした。 9(2010年 - 2013年) 1996年から2009年までが着用。 2013年のシーズン終了後にに与えられ(背番号63から変更)、2018年まで着用した。 丸が移籍した2019年以降は再び空き番となる。 1(2014年 - 2018年)前任者は。 前田智は引退時に背番号1の後継者はいるかと尋ねられた際、「しばらくはこの背番号を休ませてやってほしい」と語っていた。 2018年のシーズン終了後、前田智の了承を得た上での背番号が51から1に変更されることが発表され、5年ぶりに復活することになった。 18(2016年 - 2019年)前任者は。 黒田の「背番号15」とは状況が異なり、付けるに相応しい投手が台頭してきた、もしくはドラフトにて獲得出来た場合は与える方針としていた。 それに従い、前田健の前に背番号18を着用していた(2020年~広島監督)の意向により、2019年のドラフト1巡目で入団したに与えられた。 25(2019年 - )前任者は。 新井は背番号25の後継者について、一つだけ条件を挙げ、「一生懸命やる選手。 センスがあったり、技術的に高い選手じゃなくていい。 チームのことを第一に考えて行動できる、プレーできる選手につけてほしい」と希望した。 現在使用者が不在の番号 以下の背番号は、付けるに相応しい選手が台頭するまで空き番として扱われる。 9(2019年 - )前任者は丸佳浩。 前述の通り、丸が2018年のシーズン終了後に巨人へFA移籍したため。 11(2019年 - )前任者は。 福井が2018年のシーズン終了後に楽天へ移籍したため。 20(2020年 - )前任者は永川勝浩。 前述の通り、永川が2019年シーズン限りで現役引退したため。 24(2020年 - )前任者は。 横山が2019年のシーズン終了後に戦力外通告を受け、現役引退したため。 沢村栄治賞受賞者 [ ]• :1回(1975年)• :1回(1976年)• :2回(1982年、1986年)• :1回(1988年)• :1回(1991年)• :2回(2010年、2015年)• 1950年 - 1953年 :• 1953年 - 1960年 : (第1次)• 1961年 - 1962年 :• 1963年 - 1965年 : 白石勝巳 (第2次)• 1966年 - 1967年 :• 1968年 - 1972年 :• 1973年 :• 1974年 :• 1975年 :• 1986年 - 1988年 :• 1989年 - 1993年 : (第1次)• 1994年 - 1998年 :• 1999年 - 2000年 :• 2001年 - 2005年 : 山本浩二 (第2次)• 2006年 - 2009年 :• 2010年 - 2014年 :• 2015年 - 2019年 :• 2020年 - :• 1953年は5月3日まで指揮。 1965年は7月15日まで指揮、残り試合は長谷川良平が代行。 ここから広島東洋カープ• 1972年は6月30日まで指揮、残り試合は森永勝也が代行。 1975年は4月30日まで指揮、5月3日まではが代行。 登録名は達川晃豊。 2008年8月19日 - 21日はが代行。 2011年6月28日 - 29日はが代行。 2019年5月21日 - 22日は高信二が代行。 歴代オーナー [ ] オーナー 世代 氏名 在任期間 備考 初代 1967年(昭和42年)12月17日 - 1970年(昭和45年)11月15日 同時期に東洋工業(現・)社長を兼任 2代目 1970年(昭和45年)11月18日 - 2002年(平成14年)7月10日 1977年まで東洋工業(現・マツダ)社長を兼任 恒次の息子 3代目 2002年(平成14年)7月15日 - 耕平の長男。 オーナー代行 氏名 在任期間 備考 松田耕平 1967年(昭和42年)12月17日 - 1970年(昭和45年)11月17日 松田元 1985年(昭和60年) - 2002年(平成14年)7月14日 松田一宏 2013年(平成25年)3月25日 - 松田元の弟・(元社長および広島元社長)の長男。 歴代本拠地 [ ] 球場名 所在地 使用期間 広島市 1950年 - 1957年 広島市 1957年7月 - 2009年3月 広島市南蟹屋二丁目 2009年4月 - 現在 球団施設 [ ]• () - 二軍本拠地球場、練習施設• 広島東洋カープ屋内練習場(広島市南区南蟹屋三丁目) - マツダスタジアムに隣接する屋内練習場• 広島東洋カープ屋内総合練習場・大野寮(広島県廿日市市宮島口西1丁目) - 屋内練習場・若手選手専用合宿所• 大州寮(広島市南区大州五丁目)- レギュラー選手専用合宿所• 1958年から2011年まで独身選手用の寮「三省寮」(広島市西区三篠町3丁目)が存在した。 二軍選手寮の「大野寮」がまだないため、独身選手は主力選手でもここに入る決まりだった。 この大野の施設が出来るまで、二軍は専用グラウンドがなく、施設の整ったのグラウンドを借りた。 放課後は広陵の野球部がグラウンドを使うため、生徒が授業を受けている間で、が二軍守備・走塁コーチだった時期には、大下の怒声が広陵のグラウンドに響いた。 老朽化のため大州寮に機能を移し解体。 跡地ではMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島用の補修用芝を栽培している。 合宿所は一軍と二軍それぞれに設けている。 以前は広島市内の三篠寮1か所だけだったが施設の老朽化が進んだことから、以後(現)にある「大野屋内練習所」(カーサ・デ・カルピオ〔Casa di CARPIO〕、イタリア語で「カープの館」の意味)の敷地内に二軍の合宿所を建設。 三篠寮は一軍選手専用となった。 この大野の施設が出来る。 カープベースボールギャラリー(カルピオ・広島市中区八丁堀)- 入場券販売所・ギャラリー• () - のアカデミーを参考に作られた施設。 本拠地のには、球団の本部のほかに公式グッズを販売する売店なども整備されている。 この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月)• ニックネームの「カープ」は「」の「Carp」に由来。 名付け親はの(指定を受けたため球団経営には参画せず)。 このニックネームになった経緯は以下の通り。 広島市を流れるが鯉の産地であること。 が鯉城と呼ばれていること、鯉は滝を登る出世魚であること、また当時、でのの後に生まれたチームであることから滝を登る鯉の姿に広島の復興の想いを込めようとしたこと。 谷川の発言「文献によると、鯉は諸魚の長となす。 形既に愛す可く又神変乃至飛越をよくす、とある。 また(の地名)は鯉から転化したものであり、にも通ずる」から• 当初は「カープス」だったが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改め正式名称とした。 他のニックネーム候補にはレインボー(虹)、アトムズ(原子)、ブラックベア(黒熊)、ピジョン(鳩)、グリーンズ(緑)などがあった。 このうち「グリーンズ」はに結成された二軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用された。 また「アトムズ」はその後1966年から1973年にが、のアニメ『』に由来する名称として採用していた。 なお、現在のプロ野球12球団でチーム名が複数形のsのス、ズ、ツで終わらない唯一のチームである。 メディアなどで一文字の略称を用いる場合、漢字では「広」、アルファベットでは「C」で表記される。 また、一般的な略称は「広島」であって「広島東洋」の略称を使うのはなどに限られている。 がに「広島東洋をやめて広島マツダカープに変えればいい」と言ったら、「東洋工業に愛着がある」と話していたという。 テレビやラジオのなどでは単に「広島カープ」または「カープ」と呼ばれることが比較的多い [ ]。 チームをイメージさせるカラーとしてが知られている。 1958年にユニフォームのロゴ・袖口・襟周りに赤い縁取りがなされ、1975年には当時の監督のアイディア で帽子を赤一色に変えたのがその由来で(前述)、1977年以降はホーム用ユニフォームに赤と白を基調としたデザインが用いられている。 ただし、球団旗は1967年以来地の中央に白文字で「H」が描かれたシンプルなデザイン(5代目)であり、赤が用いられたのは創設期の「CARP」の文字(1955年まで)と1958年の鯉の絵(3代目)のみである。 資金難もあって監督はチームの生え抜き、すなわち他球団への在籍経験がない選手が昇格することが多いが、球団の黎明期には、といった、他球団から選手として移籍してきた広島県出身者を中心とした選手が(選手兼任で、あるいは引退後に)監督をつとめることもあった。 広島初の生え抜き監督は球団創設16年目に中途就任した長谷川良平で、当時35歳だった。 基本的に広島の監督・コーチは生え抜きか、外様でも広島での選手経験者を優先し、純粋な外様(広島での選手経験無し)は少ないが 、には(一軍チーフ兼打撃コーチ)が、オフには(一軍打撃コーチ)が純粋な外様として入団している。 他球団が外国人選手を採用しても、らのような日系人や、形式的に外国人登録がなされた場合でも日本人選手と同様に扱われていた在日韓国・朝鮮人の他は、外国人選手を長らく採用しなかったが、にMLB・アメリカンリーグでMVPに輝いたことのあるが日系以外の外国人選手として初めて入団した。 その後も、、、、、、、、、といった外国人選手が顕著な活躍を残している。 しかしカープ在籍中に活躍したにも関わらずシーズンオフに年俸などの待遇で契約交渉が纏まらず、外国人選手が他球団に移籍する事例が後を絶たない。 近年ではネイサン・ミンチー(2001年にに移籍)が代表例である。 春から、で春・秋キャンプを行っているが、に日南市がからキャンプのオファーを受けたこともあり、巨人キャンプ誘致を検討されたことがあった。 しかし地元協力者などの請願により白紙撤回され、現在に至るまで40年以上、日南市は広島のキャンプ地として知られる。 「」も参照• 現存する日本プロ野球チームの中で、一度たりとも正式に企業の傘下に入らず独立採算制を貫く唯一の市民球団である。 このため資金が豊富ではないこともあって、(FA)制度やでの選手の獲得の活用には消極的(あるいは否定的)である。 現在まで他球団のFA宣言選手の獲得も行っておらず、2005年までは所属選手のFA宣言をしての残留(一般的には再契約金が発生する)も認めていなかったが、以降はFA宣言選手の残留も認め、希望枠選手の獲得も行っている。 FAに関しては2006年に資格を取得したに対して球団として初めて宣言後の残留交渉を行うこととしていたが、結果的にその年は黒田は宣言せず、複数年契約(後述)を結んだ。 2007年には阪神にFAで移籍したの人的補償としてを獲得した。 希望枠選手の獲得は2006年の社会人・大学生ドラフトでのがある。 また、2008年オフにがFA宣言し横浜からヤクルトに移籍したことにより、セリーグでは唯一FA宣言した選手を獲得したことのないチームとなった。 ただし、2010年オフに横浜からFAを宣言したの獲得に乗り出したことがある(結果的に内川はへ移籍)。 1958年以降、シーズン前にへチーム全員が参拝必勝祈願することが恒例となっている。 が開場した1957年、カープはオールスター戦まで32勝26敗と健闘したが、オールスター戦後は、7月22日に球場が開場したにも関わらず22勝49敗と大幅に負け越してしまった。 これについて当時の球団代表の河口豪が、知り合いの神職から「この球場の左翼あたりは原爆により多数の市民が爆死した場所だから、その霊を慰めるよう神に祈願をかけなさい」とアドバイスされたことに由来する。 かつてはセ・リーグの中では他球団に比べ、地方球場での主催試合が多かった。 上記の倉敷、福山以外にも、、、(坊っちゃんスタジアム) など、中国・四国地方の球場で多くの主催試合が開催された。 また、ビジター球団がを有する自治体に程近い地域や、ビジター球団のファンが多い地域で主催試合を行うケースも多く、にはのとので対戦を、からにかけてはので対戦を開催しており、さらに近年は(、、、)で対戦を開催した。 このほか、他球団の地方主催試合の対戦相手となることも多かった。 1980年代後半から1990年代前半は、地方開催でもとりわけへの遠征が多く、5月から7月にかけての週末にはよく東北各地の野球場(、、、など)でデーゲームを開催していた。 全盛期には二軍の拠点を広島とは別途に、関東や東北に設置する構想もあった。 一方で、近年はの影響や新本拠地での観客動員数の大幅増加もあり、地方開催は縮小されている。 地方開催は2003年頃までは概ね10 - 13試合程度あったものの、2010年では4試合に減り、2016年以降はと・尾道いずれかの広島県下での2試合のみの開催となっている。 2019年は僅か1試合のみの開催となった。 詳細は「」を参照• 新規竣工、もしくは大規模改修が竣工した地方球場で主催試合を開催するケースも多い。 広島県内ではにで改修後初のプロ公式戦を開催した他、には竣工したばかりの(三次きんさいスタジアム)で「球場開き」を飾っている。 また県外の地方主催公式戦でも同様のケースが多く、には(こまちスタジアム)で、2009年にはでそれぞれ球場開きを飾った他、8月21日に初のセ・リーグ公式戦(ヤクルト戦)を開催している。 1995年から2005年まで、広島市民球場でのの試合開始時間は18時20分だった。 1994年以前は18時試合開始としたこともあったが、特に日没が遅い夏場に球場の外野・レフト側から西日が差し込み、試合運営、特に外野手の守備の面で支障をきたすという理由から18時20分にしたという経緯がある。 しかし、対戦カードの集客力と遠方のファンの観戦に柔軟に対応する、さらには球場周辺の滞在時間増加を見込むなどの方針見直しに伴い、2006年よりナイターは全試合とも18時試合開始に変更している。 市民球団として早くから広島地域に根付いた活動をしていたことからが多数存在していたため、公式が結成されたのはで、12球団では最後の結成であった。 巨人(1990年 - 1992年)、西武(1992年)が撤退して以降、 三軍という区分けを公式に用いたチームとしては、1996年に設立されて以降2010年まで唯一だった。 ただしカープの三軍は、若手選手の基礎体力の育成を中心とした1992年までの巨人や西武と異なり、2013年までは故障者のリハビリが専門で、2014年以降はそれに成績不振選手の強化部門が加わったもの。 後から設置された他球団の三軍 と異なり、三軍単体での試合(やチームが相手)は基本的に行なっていない。 2012年6月21日に系『』で「広島カープ芸人」が放送され 、深夜枠ながら高視聴率を記録し大きな反響を呼んだ。 以降マスメディアで取り上げられる機会が増えて、カープの特集本が多数刊行された。 広島に所属した日本人選手がメジャーリーグへ移籍してプレーしたのは・・の3名である(2016年終了時点)。 チームの戦いぶり [ ]• シーズン終了時点ではに挙げた75勝が球団史上シーズン最多勝記録であり、消滅した近鉄(の78勝が最多)と共にシーズン80勝に到達したことがなく、これは現存する12球団では唯一であったが、の対DeNA戦で76勝目を挙げ、32年ぶりに球団史上シーズン最多勝記録を更新。 そして、の対中日戦に勝利したことで球団初の80勝に到達したため、この未到達記録に終止符を打った。 結果的に当シーズンは従来の最多勝記録を大幅に更新する89勝を挙げ、勝率でもそれまでの最高記録だった1984年の. 625を上回る. 631となったため、チームの最高勝率記録も更新した。 また、には88勝52敗4引き分けと前年度より勝利数は落としたものの、勝率では、. 633を記録し球団最高勝率を更新した。 球団創立1年目()からまでの18年連続Bクラスはセ・リーグワースト記録である。 これはにに抜かれるまで日本プロ野球ワースト記録であった。 2018年時点で最後に日本一となったのは()であり、現存する12球団では最も日本一から遠ざかっている。 また、現存する12球団で時代に日本一になれなかったのは広島のほか阪神だけ ある。 2016年にでと対戦するまでは日本シリーズでナイトゲームを行った経験がなく 、名称に「ドーム」と付く球場で日本シリーズを戦ったことがなかった。 ユニフォームの変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月)• - 創設期はシールズやヤンキースを参考にしたユニフォームがあったが、球団の資金難などから1年で廃止された。 その後ビジター用のグレーは1952年まで使用。 1952年 - 大下回春堂から資金援助を受けるため、左袖にフマキラーのロゴが登場。 創設期からユニフォームは紺色をチームカラーとしていた。 - フィリピン遠征を機にユニフォームが一新。 帽子のマークに現在のデザインに似た「C」を採用。 - 当時のを参考にしたユニフォームが登場。 この時初めて胸文字及びラインに「赤」が取り入れられる。 帽子マークは小文字の「c」と「h」を並べたデザインに変更。 にはビジター用がモデルチェンジされ、型となり、この時初めて、現在使用されている筆記体ロゴの原型が登場する。 (スペルは Hirosima)。 また、胸番号も登場。 - 監督就任時より、やや緑のかかった紺色一色になり、首、袖、ベルトループに紺色のラインが入る。 帽子のマークは「HIROSHIMA」の Hマークになる。 日本のプロ野球チームでの名前を入れた唯一の例ともいわれた。 Hマークは現在の球団旗にも使われている。 ビジター用はグレー地で、胸ロゴは花文字書体の HIROSHIMA。 胸番号は無く、左袖に番号が付く。 より、監督就任に伴い、袖、ベルトループのラインが太くなり、ビジター用の番号が袖から右胸につく。 この年から「広島東洋カープ」と名称変更したことにより、ビジター用の右袖に(現:)の「TOYO」の文字が入る。 より、袖、首、パンツ、ベルトループの紺ラインをオレンジで挟むラインとなり、胸ロゴ(ホーム用のCARP、ビジター用のHIROSHIMA)、背番号、胸番号、袖襟・ズボンのラインが紺にオレンジの縁取り、帽子の Hマークがオレンジになる。 また、ビジターの胸番号がホーム同様左側に統一される。 - 監督就任に伴い、ニット素材の特徴を生かした丸首のベルトレスのユニフォームとなり、となる。 背番号、胸ロゴ、胸番号が赤の縁取り、袖と首周りに紺と赤のツートンライン、ストッキングに赤の2本ラインが入り、帽子のマークが Hから、と同じ形状の C(赤に白の縁取り)に変わる。 ビジター用は、ブルーグレー地になり、 - にかけて使用されていた筆記体ロゴが「 Hiroshima」にスペルを変更の上で復活する。 - 監督就任に伴い、帽子の色が赤に、 Cマークが紺に白の縁取りとなる。 さらに首周りがVネックとなる。 また、ズボンの縦ラインが紺・赤・紺のストライプから赤・紺・赤のストライプに変更。 - 背番号、胸ロゴ、胸文字、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり、カープ= 赤が完全に定着する。 袖、腰ラインの紺と赤とが逆転し、外側に移動した袖の紺ラインが細くなる。 また、スパイクが白地に赤のラインとなる。 ビジター用は、ブルーグレーから鮮やかなスカイブルー地になり、胸ロゴ、背番号、胸番号が光る素材のものになる。 スパイクもスカイブルー地に赤のラインとなる。 より、背番号の上に選手名が入る、• のみ、ベルトレスからベルト式になる。 このデザインは12年の長きに渡り使用され、、、の3度の日本一(はリーグ優勝)を果たした。 ちなみにビジターユニフォームはに寄贈され、受刑者がソフトボール大会で着用していた。 - 監督就任に伴い、ユニフォームを一新。 当時のを意識したデザインになる。 左胸にCマークとCARPのロゴ、胸番号は右腹部。 袖には赤の2本ライン、左袖に「HIROSHIMA」のロゴが入る。 球団創設時から定着していた紺色が消え、赤のみになる。 帽子の Cマークが白一色になり、と全く同じデザインとなる。 ビジター用は上下グレー。 ホーム、ビジター共スパイクも白地に赤ラインとなる。 プルオーバーから現在のボタン式(但し、第3ボタンまでがボタン脱着式で、あとは飾りボタン)に変更される。 なおのみ、左袖に同年広島で開催されたをPRするマークが入る。 - 胸ロゴが正面に、胸番号が左胸に戻る。 赤の前立てラインがつき、袖のラインが消え、パンツのラインが赤の細ラインになる。 ホーム用は、「CARP」の花文字が復活。 ビジター用は、「HIROSHIMA」( - 使用)のロゴが復活する。 のみ、左袖に球団創設50周年のマークが入る。 この時代のユニフォームの背番号のサイズはホーム、ビジター共にそれまでのものより若干大きめだった。 - 球団創設期に使われていた縦縞を復活。 ロゴを花文字からホーム用は筆記体デザインに、ビジター用はブロック体に変更。 またビジター用では、左投げの選手には右袖に、右投げの選手には左袖にカープのロゴ(炎のボールマーク)が入る。 この時のビジターユニフォームは両袖の部分が赤色でアナハイム・エンゼルス(当時)に似たデザインで一見ノースリーブのように見えるデザインだった。 より、背番号の上の選手名の書体が変わる。 からホーム用のみ、袖とヘルメットにスポンサー・マツダの広告が入るようになった。 同年からスパイクの色が赤地に白ラインとなる。 、ブラウン監督の発案により、投手および野手のキャプテン選手(野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹)の右袖に黄色の「C」が入る。 より、ビジター用ユニフォームの胸ロゴが - に使われた「Hiroshima」の筆記体書体になる。 また炎のボールマークからキャッチフレーズの ALL-INのロゴに変わってそれが入る。 - 本拠地の移転に伴い、ユニフォームを一新。 縦縞が消え、創設時より採用されていた紺色が21年ぶりに復活する。 帽子の Cマークに紺色の縁取りが入り、パンツには赤と紺の細いラインが入る。 ホーム用は上下白を基調とし、赤い胸ロゴ、背番号、胸番号に紺の縁取り、袖に赤と紺の細いライン、左袖に「Hiroshima」の赤い筆記体ロゴに紺の縁取りが入る。 ビジター用は上着が赤、パンツは白。 チーム史上初めてツートンカラーを採用。 上着に紺の前立てライン、胸には「Hiroshima」の白いロゴに紺の縁取り、袖に紺の細いライン、左袖に「Carp」ロゴ、背番号と胸番号は白に紺の縁取りが入る。 公式戦よりヘルメットに、マツダがと共同開発した自動車塗装色「ソウルレッドプレミアムメタリック」をイメージした特別な赤色を採用。 これは3代目の発表会を訪れた松田オーナーが展示車に使用されていた「ソウルレッドプレミアムメタリック」に興味を示し、居合わせたマツダ副社長から提案を受けて実現したもの。 ちなみにヘルメットの色の配合などはマツダの車両担当が行っている。 - 前年度セントラルリーグ優勝を記念し、左袖にが付けられる。 2007年~2008年のビジターユニフォーム スパイク [ ]• かつては全12球団で唯一、公式戦での球団指定メーカー(、、)以外のスパイクの使用が認められていなかったが、2014年頃より各自での使用が認められるようになった。 期間限定ユニフォーム [ ] 復刻ユニフォーム [ ]• 9月23日 - 25日の3日間の対巨人戦で、1977年 - 1988年のホーム用の復刻モデルを使用。 背ネーム付・カバー付ベルト仕様の1988年モデルを採用。 ただしヘルメットは通常デザインのものを使用。 8月に行われたセ・リーグ主催の「」では1989年 - 1995年のホーム用の復刻モデルを使用。 8月23日 - 25日の対横浜戦と同月26日 - 28日の対巨人戦で、1977年 - 1988年のビジター用の復刻モデルを使用し、背ネーム付・カバー付ベルト仕様の1988年のビジター用の復刻モデルを採用。 2008年と異なりヘルメットも当時のものを復刻。 8月 - 9月に行われたセ・リーグ主催の「」では球団史上初のリーグ優勝を飾った1975年のビジター用の復刻モデルを使用。 その他 [ ]• 、8月23日からのヤクルト3連戦(マツダスタジアム)限定で「デニムデザインユニフォーム」を着用すること発表。 ユニホーム上下及び帽子にデニム柄を採用。 デニムのさわやかなブルーに、チームカラーである「赤」のステッチに白の縁取りを施しアクセントにすることで、強さと勝利への執念を表現した。 以降の限定ユニフォームでは背ネームがオミットされている。 背番号の書体は従来のものと異なり、オリジナルのものが採用された。 帽子はデニムカラーにマークが赤で入ったものだったが、ヘルメットは通常デザインのものを使用した。 、8月22日からの阪神3連戦(マツダスタジアム)限定で、キャッチフレーズの「赤道直火」にかけて、「赤道直火ユニフォーム」を着用することを発表。 全身を赤色のユニフォームとしたが、通常ビジター用と若干違う「の赤」をモチーフにしている。 帽子の庇やアンダーシャツ、ベルト、ストッキングは黒。 チームロゴは黒地に白の縁取りが、帽子のマークには白のシャドーが施された。 これを皮切りに、シーズンのキャッチフレーズにちなんだ限定ユニフォームが夏季に着用されるようになった。 の「ピースナイター」(後述)試合限定で、監督、コーチ、選手全員が8月6日にちなんだ背番号 86のユニホームを着用。 セ・リーグ公式戦でチーム全員が統一した背番号のユニホームで戦うのは初めて。 デザインは、胸に花文字で PEACE(平和)、背中に個々の名前ではなく HIROSHIMAのロゴが入り、背番号・胸番号は監督、コーチ、選手全員が 86。 左袖のワッペンには原爆で犠牲になった29万2325人(昨年8月6日時点)の数字を、帽子の右側頭部には平和を象徴する「白いハト」のデザインをあしらった。 2015年、8月25日からの阪神3連戦(マツダスタジアム)限定で、赤と紺のチームカラーをメインに白のストライプ柄の「常昇魂ユニホーム」を着用することを発表。 キャッチフレーズ「常昇魂」をモチーフに、頂点へ上り詰めるイメージとした。 赤と紺色のチームカラーに、「セ界の頂点へ昇る」という意味を込めたストライプが特徴。 なお、広島のユニホームにストライプ柄が採用されるのは、2008年までのホーム用ユニホーム以来。 赤地に白のストライプが入ったデザインで、ロゴ・背番号は赤に白の縁取り、アンダーシャツと帽子の庇は紺、帽子のマークは紺に白の縁取り。 、8月30日からのDeNA3連戦(マツダスタジアム)限定で、キャッチフレーズ「真赤激」にかけて、「真赤激ユニフォーム」を着用した。 赤地にロゴ・帽子の庇とマーク・背番号が緑色で入り、左胸付近と帽子の左側頭部には唐辛子の刺しゅうが施されている。 背番号の書体は従来のものと異なり、オリジナルのものが採用された。 3月18日の日本ハムとのオープン戦(マツダスタジアム)は黒田博樹のとなり、この試合限定で「黒田博樹特別ユニホーム」が使用された。 デザイン自体は黒田がカープに入団した1997年当時のものがベースで、文字に金色の縁取りが入り、左胸にはメモリアルマークが付けられる。 試合ではカープナイン全員が黒田の背番号 15と KURODAの背ネームを付けてプレーした。 なおこの試合の始球式を務めた黒田はユニフォームを着用せず、スーツでこれに臨んだ。 2017年、8月18日からのヤクルト3連戦(マツダスタジアム)限定で、キャッチフレーズ「カ舞吼」にかけて、武将茶人・がの際に着用した陣羽織をモデルとしたデザインの「カ舞吼ユニフォーム」を着用。 猩猩緋(しょうじょうひ)という赤を地色とし、襟・袖・ラケットライン・帽子の庇は鉄紺(てつこん)を模した黒、ロゴ・背番号・キャップのマークは白地に金の縁取りで、背番号の書体は毛筆で書いたようなデザインが取り入れられた。 背番号の下部にはキャッチフレーズにも描かれている足が、加えてロゴには走った際の砂煙が施された。 、8月30日からの横浜DeNAベイスターズ戦の3連戦(マツダスタジアム)限定で、今季のキャッチフレーズ「水金地火木ドッテンカープ」にかけて、「ドッカンカープユニフォーム」を着用。 地色は昨年同様紺で、袖ラインは赤、ロゴ・背番号・帽子のマークは赤地に白の縁取り。 主な特異点は背番号を横切るように、キャッチフレーズにも描かれている金のネックレスが、ロゴに重なるようにカープの帽子・サングラス・ネックレスを着用してラッパーを模したキャラクターが、マイクパフォーマンスをしているデザインがあしらわれた。 ユニフォームのスポンサー [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月)• 、の節にもあるように、1952年から1953年の2年間はユニフォームの左袖部分にのロゴマークが入っていた。 から、ヘルメット、ユニフォーム袖にがホームゲーム限定のスポンサーとなる。 ヘルメットはマツダ製の自動車のブランドロゴを入れる。 (当初はマツダの新型車発売と連動して広告の車種が変更されていたが、2015年以降はスローガンの「Be Driver」に固定されている)• この関係で、2009年に加入した異競技連携組織「」のロゴマークを掲示するスペースがない(他競技のチームはロゴを掲出している)。 球団旗の変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月)• 1950年 - 1955年:白地に12本の青ストライプと赤文字でCarpの文字。 1956年 - 1957年:白地に3本の横青ストライプと青文字で大きなCの中にCarpのロゴ。 1958年:紫地に白文字でCARP。 Cの部分に鯉のイラストが覆い被さるデザイン。 1959年 - 1966年:白地と紫地を斜めで分け、前のデザインの鯉のイラストを大きなピンク色のCの文字で再現。 1967年 - :紺色地に白文字でH。 マスコット [ ] 球団は以下の2人。 詳細はその項を参照。 - デビュー。 球団として現在も使用。 - デビュー。 球団創立からカープ坊やデビューまでは、丸に鯉のペットマークを使用。 当時のジャンパーにワッペンが張りつけられていた。 また、には、当時広島県内で開催されたの公式マスコットのをでの「ホームランガール」として起用した。 主なキャンプ地 [ ]• : チームスローガン [ ]• 1953年 闘志なき者は去れ• 1973年 スピードとスリルある野球• 1974年 HOTTER BASEBALL! 1976年 CHALLENGE '76CARP BASEBALL V2 DO ONE'S BEST• 1977年 LET'S GO TO CHAMPIONSHIP• 1978年 ALL MEN DASH! 1979年 LET'S SPARK! 1980年 3S BASEBALL SUSPENCE SPEED START• 1981年 3A BASEBALL ACTIVE ACTION APPEAL• 1982年 BIG JUMP HOT BASEBALL• 1983年 START FROM ZERO• 1984年 BLAZING BASEBALL• 1985年 CHALLENGE TO FRESH BASEBALL• 1986年 CONSISTENT CONCENTRATION (一貫した集中力)• 1987年 3C COMMUNICATION COMBINATION CONCENTRATION• 1988年 RETURN TO FUNDAMENTALS (基本に帰れ)• 1989年 WINNING SMILE• 1990年 STRIKING AVNEW (新たなる爆発)• 1991年 WILL TO VICTORY• 1992年 VALUE OF VICTORY• 1993年 RED CHARGE• 1994年 TOTAL BASEBALL• 1995年 TOTAL BASEBALL II FORWARD EVER• 1996年 TOTAL BASEBALL III OVER THE TOP• 1997年 TOTAL BASEBALL R S REALIZAR SUENO (夢の実現)• 1998年 TENGA CONFIANZA (己を信じて)• 1999年 YES, WE CAN• 2000年 START FROM ZERO ZERO• 2001年 レッドアタック「攻めろ!! 2002年 レッドパワー「燃えろ!! 2003年 ライジングハート「たかぶるハートで」• 2004年 WILL TO VICTORY• 2005年 REBORN TO WIN「赤ヘル再生」• 2006年・2007年 ALL-IN• 2008年 ALL-IN激• 2009年 ALL-IN烈• 2010年 We're Gonna Win 俺たちは勝つ• 2011年 STRIKIN'BACK 逆襲• 2012年 GROUND BREAKERS 破天荒• 2013年 RALLYING TO ATTACK! 剣砥挑来• 2014年 赤道直火 RED ALL THE WAY 赤く、熱く、真直ぐに• 2015年 常昇魂 RED RISING• 2016年 真赤激! Burn it up! 2019年 水金地火木ドッテンカープ• 2020年 たった今 このAKAの子 舞いたった キーワード [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) ピースナイター [ ] 2010年までが行われたに広島の主催試合が編成された場合は、旧広島市民球場(マツダスタジアムも同様)は使用せず、(マスカットスタジアム)、などで行っていた。 これは球場を保有しているが、8月6日を原爆記念日として休日となっているためであった。 また旧市民球場はに近いため、当日の記念式典などによる参拝・参列者が多数訪れ、交通機関も混雑することも考慮した上での措置であった。 旧市民球場が閉場となる2008年には8月6日に試合を行う方向で検討もされたが、実現しなかった。 2011年は、53年ぶりに本拠地(マツダスタジアム)で対巨人戦が開催され 、以来マツダスタジアムで開催される試合は毎年等の共催による「ピースナイター」としている。 2015年の試合ではも着用された。 経営事情 [ ] カープは当初、「広島野球倶楽部」として、広島県、広島市、、、(広島市に主力工場があった)、、などの広島政財界の出資で設立された。 運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは当時同じ中国地方のを本拠地としていたとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「」参照)。 この経験から資金集めを行う後援会が設立され、創成期のカープの運営を支えていくことになる。 また「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り、これはまで続いた。 しかし1955年には「広島野球倶楽部」の負債額は莫大なものとなり、もはや後援会でも手に負えなくなったと判断した広島財界は、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させ、新たに「株式会社広島カープ」を設立、初代社長にのが就任している。 にはとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、2代目社長のがそれを拒んでいる。 それについてはを参照。 これは後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダが傘下に入った以降も変わっていない。 ただし実質的にオーナー会社ではなくなった現在でも、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を残している。 現在もマツダは筆頭株主として球団株式の34. またカープ選手のユニフォームの右袖やヘルメット、更にのチケットにの広告が出され、さらに2013年からは新型に採用された新色「ソウルレッドプレミアムメタリック」がヘルメットカラーに採用されるなど両社の関係は深い。 経営状態そのものは、親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中にあって、その親会社が無い独立採算制でありながらも良好であり、1975年度から2013年度まで39期連続で黒字決算となっている。 特に2009年度は開場初年という背景もあって、当期売上高が117億円余と過去最高を記録した。 ただしこの売上高の内訳については、2004年(65億円)が、放映権料収入(28億円)、入場料収入(20億円)、販売・広告料収入(12億円)で大半が占められていたのに対して 、2009年(117億円)は、入場料収入48億円、グッズ販売20億円、飲食収入20億円とその構成比が大きく変わっている点に留意する必要がある。 特にグッズ販売に関しては、2010年・2011年が14億円、2012年は16億5,000万円、2013年は19億5,000万円と、2009年以降も好調な売り上げを記録しており、売上高全体の約2割を占めるまでに成長した。 これは2004年のを契機にが実現。 その影響で巨人戦を中心とした放映権料収入の激減が予想されたため、強い危機感を抱いた球団は、この時期からグッズ開発の強化 、週末試合をナイターからデーゲームへ切り替えるなど 、これまでの放映権料収入中心のビジネススタイルからの脱却を図っており、それが2009年以降に大きな成果となって現れている。 2009年に球場内の球団専用施設へ22億円を出資したことに続いて 、2010年は1軍寮の建設(2億円) 、2012年はクリーニング工場の建設 、2014年は2軍選手送迎バスの更新(5,000万円)、マツダスタジアム横の屋内練習場建設(16億円) 等、新球場完成後は設備投資も増えている。 またドミニカ共和国のは、2005年から球団の経費削減の一環として運営費が縮小されたため、投手の育成しか行っていなかったが、2013年から野手育成を再開している。 その一方、年俸総額順位はプロ野球12球団中、2007年の10位を除き、近年は11位以下である。 これは、1993年オフに導入された制度、そしてドラフトにおけるの導入により、カープにおいては、1989年には8億円であった選手年俸総額が1997年には16億円と8年間で2倍に急騰、2002年には17億8900万円に達したものの、2003年以降はドラフトで獲得した選手の伸び悩み、、、、、と相次いだ主力打者の流出もあったため球団成績は低迷、結果として年俸総額が徐々に低下したことによる。 ただしマツダスタジアムが完成した2009年以降は外国人選手を多数獲得してきた影響もあって徐々にではあるが年俸総額が高まっており、2014年度は20億8585万円となった [ ]。 このように経営状態は良好であるものの、球団の財務指標は公開されていないため、明確な支出状況は一切不明である。 そのため、市民への一般公開を求める意見も存在している。 スカウティングと育成 [ ] 広島カープの特徴を挙げるとき、よく評されるのが「巧みなスカウティングと育成能力」である。 特に1975年半ばから1980年代半ばの赤ヘル黄金時代には 、広島を中心とした選手の育成・活躍もあり、広島経済の好調さなどの要因が相まって観客動員数を増加させた。 ~シーズンの連続日本一は、この項環境が築き上げた金字塔といえる。 これは広島で黄金時代の基礎となる選手を育てたが、その後チーム作りに関わったやでも同様のプロセスで球団の改革を行っている。 FA宣言選手への対応 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) に日本プロ野球でもが導入されたが、導入当初の広島はFA権の行使後の残留(FA残留)は一切認めず、また他球団のFA宣言選手の獲得も見送っていた。 これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。 また、松田耕平前オーナーの『球団は家族。 選手は子供。 両天秤にかけて家族を選ぶ子供が居るだろうか』というチーム観が遺訓として残っているという事もある。 しかし、選手にとっては他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要であるため、(当時選手会長)やなどのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが、結局認められず、行使した金本は残留の選択肢がないため阪神へ移籍した。 そんな中、オフにエースのがFA宣言を示唆する発言をした。 投手陣が弱体化している球団にとって、唯一安定成績の投手である黒田の流出はチームの死活問題となるので、今回ばかりは一転してFA残留を認める方針を掲げた(結局、黒田はこの年は行使せず残留したが、翌2007年オフににFA移籍した後、2015年より広島に復帰)。 この一件を経た現在では、球団は FA残留を認めていないわけではない。 2007年オフにが、2008年オフにが、2018年オフにがFA権を取得した際、球団はそれぞれの選手のFA残留を認める方針であった事を明らかにしている (新井と丸はFA権を行使しそれぞれ阪神、巨人へ移籍(新井は後に広島に復帰)、東出は行使せず残留)。 ただし行使後に残留が認められた実例は未だに無く、中には2015年オフののように、FA宣言するも獲得に乗り出す球団が現れず、広島との再契約も認められなかったため 、FA選手で初めて他球団の入団テストを受ける事態となった例も存在する(木村はその後入団テストに合格して西武入りが決まったが、手続き上はあくまで「FAの行使による移籍」として扱われている)。 他球団のFA宣言選手の獲得については、2009年に日本ハムからFA宣言したについて調査し 、2010年に横浜からFA宣言したの獲得に参入していた。 しかし、いずれも他球団へ入団したため(藤井は巨人、内川はソフトバンク)未だに獲得の実例はなく、にとが球団史上初めてFA選手を獲得したことにより、広島はセ・パ12球団の中で唯一のFA選手獲得経験のない球団となっている。 地方開催 [ ] 初の地方遠征 [ ] カープ初の地方遠征はに福山三菱球場で行われた対中日1回戦だった。 には、広島県内で初のビジターゲーム・が現在の十日市町営野球場で行われた。 開催地はこの数日前にが催された。 が所々落ちている茂る原っぱである。 は三塁側がで傾斜面が。 平坦な一塁側はやを並べて観客席を作った。 代わりに一束二十銭でのを売り、品切れになると隣の田んぼからいくらでも補充した。 は馬が繋がれていた丸太ん棒に板を打ち付けた即席ベンチ、勿論屋根はない。 ベンチ前にはバケツが置かれ、がのホースを伸ばし、近所の農家の井戸から水を汲み上げバケツに注ぐ。 これが選手たちの飲み水である。 は小学校の。 一枚では数字が読みにくいと二枚並べた。 は、所々に青竹を立てて荒縄一本を腰の高さに張り巡らせた。 がないことに試合直前に気付き、慌てて田んぼから稲干し用の丸太を引っこ抜いて立てた。 この環境で公式試合がスタート。 雑草やデコボコのグラウンドで、5回にしてカープが早々全員安打の15安打、7回にはツーアウトから四球一つをはさんで8本の長短打を放ち10点。 ゲーム途中でスタメン全員得点、全員打点、毎回安打、1イニング三本塁打を記録。 カープがこの試合で記録した28安打は、2019年終了時点でもセリーグ記録である。 22得点は球団記録。 この試合を現地で取材したは、、、の三社のみで、野球担当になって間もない記者はの記入に苦戦した。 この試合から両チームの打ち合わせで、外野柵の縄張りの上を越せばホームラン、下をくぐれば二塁打と取り決めた。 この試合で外野にお客を入れたかは分からないが、その後外野にお客を入れるとファンがカープに有利になるよう縄を動かした。 これで問題を起こしたのが後述する「ナワ・ホームラン」である()。 全国各地での主催試合 [ ] カープは、かつては積極的に地方遠征を行っていた時期があり、日本ハムの北海道移転や楽天の球団創設以前は東日本と北陸を中心に、北は北海道から南は鹿児島まで、全国各地で主催試合を行った。 球団創設当時のは主に広島県のその他の球場のほか、岡山県や山口県・島根県といった中国地方での地方開催が多かったが、特にからにかけては北海道と東北6県全てで主催試合を行うなど、広範囲で地方開催を行ったこともあった。 それ以降もにかけて東北地方のほか長野や、どちらかと言えば中日のテリトリーである金沢・富山・福井の北陸3県でも主催試合を行った。 このため、当時の主力選手であったは現役時代、のち移籍した阪神タイガース時代も含めて史上2位タイとなる33球場でホームランを放ったというエピソードもある。 だが、2000年代半ば以降は地方での主催試合は大きく減少し、本拠地が現在のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に移転した以降は、中部・北陸で若干行われた以外はやといった広島県下の球場での開催にほぼ限られるようになった。 特にが広島に復帰して以降は本拠地のチケットが入手困難化したこともあり、地方開催は年に1 - 2試合に留められ、それも三次、呉、の広島県下のいずれか球場に限られるようになった。 更に2020年は地方開催は行わず、主催試合は全72試合ともMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島で開催予定としている。 8人の侍 [ ] 開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。 広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。 議案は同年に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。 当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。 、が「カープ解散」を報じた。 解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたを手に県庁、、広島電鉄、、中国新聞社へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。 この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。 広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。 この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。 疑惑の本塁打 [ ] 、尾道西高校(現・)の校庭で開かれた三回戦で 、4回広島・選手の放った打球が右中間に飛び込むホームランとなったが、このプレーをめぐり洋松・監督が異を唱え主審に打ち直しを要求した。 先述のように三次での試合から外野柵の縄張りの上を越せばホームラン、下をくぐれば二塁打という取り決めがあり、この試合も校庭のため外野柵がなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。 その為「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。 それまでロビンス選手の打球が外野に飛来するとカープファンが縄を高々と差し上げ、カープ選手の打球が外野に飛ぶと縄を下げたりするので、小西監督も腹を据えかねていた。 当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。 グラウンドやグラウンドでの開催もある。 そのわずか11日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、洋松選手のホームランをめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。 この日、第一試合は2—4でカープの負け。 第二試合は終盤までカープリードで八回表、洋松のが走者二人を置いて、の速球をレフトポールに直撃する逆転スリーランを放ち、カープが逆転負けを食らうと「こんなもんがあるからカープが負けるんじゃ」とファンがそのを引き抜いてしまうという珍事も起きた。 この騒動には三つの遠因があり、荒川が「やーい、ザマーみろ!! 」とスタンドで騒ぐカープファンをからかう仕草をやったこと、三塁の谷口塁審が先にフェアのをし、荒川が二塁を回るころ、改めてホームランのサインを示し、ファンから見ればジャッジの訂正のように見えたこと、カープの石本秀一監督が騒ぎ出したファンを納得させようとマイクを通じて事情を説明したが、「自分はそうは思わないが、塁審がホームランであるというからー」などと曖昧なことを言うから、興奮したファンに油を注いだことであった。 試合終了後、殺気立つファンが雪崩うってグラウンドへ乱入し、谷口塁審、杉村主審らに暴行を働いた。 そのうち十数人のファンが長い左翼ポールを引き抜き、審判団の逃げ込んだ道具置場までポールを持って行き「審判、このポールのどこに当たったんじゃ! 」と叫び、さらにポールで道具置場のドアを突き破ろうとした。 朝日新聞記者・塩口喜乙は暴れるカープファンを片っ端から撮りまくり、翌日の朝日新聞は社会面のトップにこの事件を掲げ、『』や『』も大きく取り上げた。 結局夜まで審判団を缶詰めにし、警官隊が出動する騒ぎになった。 尾道の事件後、連盟から「内外野の柵は縄を使用してはならない。 なんらかのフェンスを設置すること」という指示が出て、ので開催された4月16日の巨人二回戦は、急遽、鉄筋コンクリートの建物を作る際にセメントを流し込む囲い板でフェンスが作られた。 幻の本塁打 [ ] 、阪神甲子園球場で行われた戦で、12回表、1死ランナーなしから広島・の打球が左中間フェンスのスタンド側に張られたワイヤーで大きく跳ね返り外野を転々としていた。 田中は三塁で止まったものの広島側のベンチはホームランをアピールした。 審判団はビデオ判定による協議でフェンスのグラウンド側で跳ねたボールインプレーと判定し三塁打とした。 後続打者は凡退し2-2の引き分けに終わった。 試合後、カープはNPBとセリーグ両事務局に抗議文を送り、NPBは一度フェンスを越えていたと誤審を認めたものの記録や成績の訂正は一切行わないとした。 広島はシーズンを69勝71敗3分で終え、3位阪神とは0. 5ゲーム差で4位となりクライマックスシリーズを逃した。 この試合に勝っていれば広島は70勝71敗2分(勝率. 496)、阪神は70勝72敗1分(勝率. 493)で広島が3位になっていたので非常に大きな誤審になった。 なお、2015年はBクラスで終わったため本来は2017年の開幕権はなかったが、3位の阪神が返上したため、2017年はマツダスタジアムで開幕戦を迎えることとなった。 沖縄県出身初のプロ野球選手 [ ] 入団のは、当時出身で、琉球煙草を経てカープに入団、初のプロ野球選手となった。 その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団するとともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。 にに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。 には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえたのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「 安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。 厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの「安仁屋流」を確立するも、投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。 「カープを優勝させる会」 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2012年11月) にに在住する人の著名人有志が「 カープを優勝させる会」という団体を発足させた。 発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家だった。 この発足に、、、、、、ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのあるや、その他、で有名だったや梶山の飲み友達だったらが参加した。 佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!! 」と馬鹿にされていた。 「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。 それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。 しかし発足させたのはいいが2年後()に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。 しかしチームが初の優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・だった。 こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに以前ほどではないが低迷。 これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」をに発足。 するとチームはに初の日本一、翌には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。 日本シリーズMVPの自動車 [ ] カープは過去に1979年、1980年、1984年の3回、に優勝している。 通常は日本シリーズの最優秀選手にはから自動車が贈呈されるが、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業であるからの自動車が贈呈された。

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あなたが選ぶ広島カープの歴代の監督でベスト5とワースト5を選んで下さい。...

カープ 歴代 監督

広島の歴代監督 初代監督から順に記載します。 出身チームについてはプロチームのみの記載です。 石本秀一監督(1950年〜1953) 生年月日:1897年11月1日 ポジション:投手 出身チーム:大連実業団 最高順位: 4位 戦前、戦後の時代に野球に携わり続けて自身6球団目となる広島カープ初代監督に就任しました。 広島出身で広島商業学校の監督を務めた経験があり、自ら球団に監督を志願したそうです。 白石勝巳監督(1953年〜1960年) 生年月日:1918年4月15日 ポジション:遊撃手 出身チーム:読売ジャイアンツ〜広島カープ 最高順位:4位 初代広島カープ背番号17番のスター選手! 選手の頃から監督業を兼任し、その後正式に監督となりました。 門前眞佐人監督(1961年〜1962年) 生年月日:1917年5月15日 ポジション:捕手 出身チーム:広島カープ 最高順位:5位 助監督も兼任していています。 2年連続Bクラスに終わると退任し、その後テレビの野球解説者として活動しました。 白石勝巳監督(1963年〜1965年) 最高順位:4位 2期目の就任で王シフトといわれる作戦を考えたり話題を作りましたが、優勝することは出来ませんでした。 長谷川良平監督(1965年〜1967年) 生年月日:1930年3月25日 ポジション:投手 出身チーム:広島カープ 最高順位:4位 カープのエースとして活躍し引退後投手コーチの経験を経て監督に就任しました。 補強はあまりせず、チームの選手の力を上げ強化していく方針でした。 根本陸夫監督(1968年〜1972年) 生年月日:1926年11月20日 ポジション:捕手 出身チーム:近鉄パールス 最高順位:3位 選手としては控え捕手でしたが、球界の寝業者と言われる名監督となりました。 万年Bクラスで財政難を抱えるカープを見事3位のAクラスに引き上げたのです。 スポンサーリンク 森永勝也監督代行(1972年6月30日〜オフまで) 生年月日:1934年4月5日 ポジション:外野手 出身チーム:広島カープ〜読売ジャイアンツ 最高順位:最下位 根本陸夫監督が途中退任したため、打撃コーチをしていた森永勝也コーチが監督を務めましたが最下位に終わっています。 別当薫監督(1973年) 生年月日:1920年8月23日 ポジション:外野手 出身チーム:大阪タイガース〜毎日オリオンズ 最高順位:最下位 現役時代史上初のトリプルスリーを達成した選手です。 監督としては勝つ監督というよりは選手を育てる監督でした。 森永勝也監督(1974年) 最高順位:最下位 2期目となる就任です。 後任のジョー・ルーツを広島のコーチとして迎えました。 ジョー・ルーツ監督(1975年4月30日まで) 生年月日:1925年2月18日 ポジション:一塁手 経歴:セントルイス・ブラウンズ 最高順位:解任 アメリカと日本野球の違いにもめてしまったこともあり、球団とも信頼関係を築けず15試合での退任となりました。 しかしチームカラーを赤にして、赤ヘル軍団を誕生させたり、選手のポジション変更し育成したり、 今のような投手ローテの発祥となったりと沢山のものをカープに残してくれた監督です。 野崎泰一監督代行(1975年5月3日まで) 生年月日:1923年7月2日 ポジション:投手 出身チーム:大阪タイガース〜東急フライヤーズ〜広島カープ 最高順位:解任 広島カープの大功労者です。 現役を引退し翌年から広島カープの投手コーチになりました。 代理監督を務めたあとは二軍監督、球団常務、球団代表とフロントで活躍していました。 選手引退後から40年近く広島カープを支え続けた大功労です。 古葉竹識監督(1975年〜1985年) 生年月日:1936年4月22日 ポジション:遊撃手、二塁手 出身チーム:広島カープ〜南海ホークス 最高順位:日本一 カープ史上初のリーグ優勝と日本一へ導いた監督です。 黄金期のカープをで11年指揮をとり、日本一を3回、リーグ優勝を4回達成しています。 現役(2017年現在)日本一を経験している監督は古葉竹識監督だけです。 長きに渡り監督勤め上げ勇退しました。 スポンサーリンク 阿南準郎監督(1986年〜1988年) 生年月日:1937年9月2日 ポジション:内野手 出身チーム:広島カープ 最高順位:1位 広島カープ史上最高の勝率をあげた監督です。 古葉監督からチームを受け継ぎ就任1年目からリーグ優勝を果たしています。 黄金期をコーチとして支え下積みしてからの監督として力を発揮し、就任期間3年間の成績はAクラス入りしました。 山本浩二監督(1989年〜1993年) 生年月日:1946年10月25日 ポジション:外野手 出身チーム:広島カープ 最高順位:1位 広島カープ初の本塁打王。 黄金期に4番バッターとして活躍しミスター赤ヘルと呼ばれた名プレヤーです。 監督就任当初は1位になるなど好成績でしたが、5年目には5位の責任をとり退団しています。 三村敏之監督(1994年〜1998年) 生年月日:1948年9月19日 ポジション:遊撃手、二塁手、三塁手、外野手 出身チーム:広島カープ 最高順位:2位 現役時代に2番ショートで初優勝に貢献しました。 沈んだチーム状況の立て直しを任され、就任一年目でAクラスまで立て直しました。 若手を積極的に起用し、4年連続Aクラス入りを果たしました。 達川光男監督(1999年〜2000年) 生年月日:1955年7月13日 ポジション:捕手 出身チーム:広島カープ 最高順位:5位 現役時代は広島カープの正捕手として活躍しました。 投手陣が崩壊し、不振が続き2連続5位に終わり退任しました。 山本浩二監督(2001年〜2005年) 最高順位:4位 2期目の監督就任です。 低迷したチームの立て直しに尽くしますが結果はでませんでした。 退任後2013年にはWBCの監督をしています。 マーティ・ブラウン監督(2006年〜2009年) 生年月日:1963月1月23日 ポジション:一塁手、三塁手、外野手 出身チーム:シンシナティ・レッズ〜ボルチモア・オリオールズ 〜広島東洋カープ 最高順位:4位 ベースを投げたり、内野手を増やす守備体系を取りいれたりなど話題性のある監督でした。 退場の回数の多さも話題になりました。 選手を守りファンサービスもよかったブラウン監督はとても人気がありました。 野村謙二郎監督(2010年〜2014年) 生年月日:1966年9月19日 ポジション:内野手 出身チーム:広島カープ 最高順位:3位 カープ再建の切り札として監督に就任しました。 優勝を目指し指揮をとりましたが、結果がでず批判を受けることもありました。 しかし2013年には16年ぶりのAクラス入りに導いています。 緒方孝市監督(2015年〜現在) 生年月日:1968年12月15日 ポジション:外野手 出身チーム:広島カープ 最高順位:1位 若手の積極起用や果敢な走塁などを変え優勝を目指します。 2015年は優勝への期待がかなり高まっていましたが、残念な結果に終わりました。 しかし2016年は25年ぶりのリーグ優勝を成し遂げました!選手との信頼関係もバッチリの監督です。 2017年は日本一を目指して指揮をとります。 スポンサーリンク 管理人のつれボーです。 野球をこよなく愛する一般人代表を自負しております。 野球の面白さや魅力を伝えるべく、私、つれボーに加えて複数の野球仲間と共に楽しく記事を執筆しています。 当サイトを通じて野球への興味が更に深まって頂けると大変嬉しく思います。 カテゴリー• 191• 243• 111• アーカイブ•

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