戦国 武将 名言。 戦国武将名言録 (PHP文庫)

戦国武将の名言 一覧

戦国 武将 名言

戦国武将の生きざまには学ぶことが多く、現代でも役立つ名言をたくさん残しています。 武将の数々の言葉にはビジネスに通ずる教えがあり、またモチベーションを上げるきっかけを与えてくれることがあります。 このサイトではビジネスや人生でも役に立つ名言をご紹介しています。 第一位 武田信玄 風林火山で有名な武将です。 戦国最強の騎馬軍団を率い、他国から恐れられていました。 人を重視した考え方が現代でも役立つため、信玄の名言はビジネスマンに人気があります。 第二位 黒田官兵衛 豊臣秀吉の参謀として調略や他大名との交渉などに活躍しました。 官兵衛の「戦わずして勝つ」という考え方や行動で、生き残るための方法が学べます。 第三位 徳川家康 「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」 の忍耐と配慮で天下を統一した 家康の哲学が評価されています。 家康の一生から、勝利の秘訣を学ぶことができます。 第四位 織田信長 織田信長の先見性はベンチャー起業家のようなもので ビジネスシーンに置き換えても大きな学びがあります。 第五位 明智光秀 逆臣のイメージが強いですが、誰よりも早く出世した光秀の考え方など参考になります。

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武田信玄の名言・格言(戦国時代の武将の言葉)

戦国 武将 名言

Kenshin Uesugi 上杉謙信 戦国時代の越後国の武将、戦国大名。 越後の虎、軍神などと称される。 国: 日本(現在の新潟県上越市中屋敷) 生: 1530年2月18日 没: 1578年4月19日(享年48) 【その生涯】 1530年2月18日(享禄3年1月21日)、越後守護代・長尾為景の四男として春日山城(現在の新潟県上越市中屋敷)に生まれる。 幼名は虎千代。 当時の越後国は内乱が激しく、下剋上の時代にあって父・為景は戦を繰り返していた。 1536年に父・為景は隠居。 兄・長尾晴景が家督を継ぐ。 1543年、虎千代は13歳のときに元服。 長尾景虎と名乗る。 兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなく、1544年に越後の豪族が謀反を起こす。 14歳の景虎は謀反を鎮圧することで初陣を飾った。 1548年、兄・晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退し、景虎は18歳で家督を相続し、守護代となる。 1550年、主君の守護・上杉定実が後継者を遺さずに死去。 将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認める。 同年、一族の長尾政景が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こす。 景虎は反乱を鎮圧し、越後統一を成し遂げる。 1552年、景虎22歳のとき、相模国の北条氏康に上野国を攻められ、逃亡してきた関東管領・上杉憲政を迎え入れる。 景虎は派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退。 同年、31歳のの信濃侵攻によって領国を追われた信濃守護・小笠原長時らが景虎に救いを求める。 景虎は自ら軍を率いて信濃国に出陣。 武田領内へ侵攻し、武田方の諸城を攻め落とす。 信玄は決戦を避けたため、景虎は深追いをせず、越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。 その後も信玄と北信濃の支配権を巡る川中島の戦いは続き、計5回に及ぶ。 1560年、桶狭間の戦いにより甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、30歳の景虎は北条氏康を討伐するため関東へ向けて出陣。 翌年には相模国にまで侵攻、鎌倉を落とす。 さらに10万余の軍で小田原城をはじめとする諸城を包囲。 しかし、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せ、景虎の背後を牽制。 景虎は小田原城を落城させるには至らず兵を引いた。 1561年、景虎は山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎と改めた。 その後、将軍・足利義輝の一字を賜り、輝虎と改めた。 1568年、北条氏康は甲相駿三国同盟を破って駿河国へ侵攻した武田信玄と断交。 翌年、氏康は長年敵対してきた輝虎に和を請い、輝虎は氏康と同盟を結ぶ。 1570年、40歳の輝虎は、氏康の七男・北条三郎を養子として迎え入れる。 輝虎は三郎のことを気に入り、景虎という自身の初名を与えた。 輝虎は法号・不識庵謙信を称した。 1572年、北条氏康の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄し、武田信玄と和睦。 謙信は北条氏と敵対する。 同年、信玄に通じて加賀一向一揆と合流した越中一向一揆が上杉方の諸城を攻略。 謙信は越中へ出陣し、尻垂坂の戦いで一向一揆に圧勝。 同年、信玄と交戦状態に入ったから同盟の申し出を受け、謙信は信長と同盟を締結。 1573年、宿敵・武田信玄が病没。 謙信は越中国へ出陣し、越中の過半を制圧した。 1576年、46歳の上杉謙信は信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と和睦し、信長との同盟は破綻。 顕如は一向一揆の指導者であり、これにより上洛への道が開ける。 1577年、織田信長は謙信との戦いに踏み切る。 柴田勝家を総大将とする3万余の大軍は加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍。 しかし、が総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げる。 勝家率いる織田軍は手取川を渡り、水島に陣を張ると、上杉謙信は数万の大軍を率いて一気に南下。 形勢不利を悟った勝家は撤退を開始するも、謙信率いる上杉軍は手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破した。 1578年4月15日、上杉謙信は次なる遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れる。 同年4月19日に謙信は急死。 48年の生涯を閉じた。 謙信は、養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを発表していなかったため、内乱によって上杉家の勢力は大きく衰えることとなる。 未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも推測されるが不明である。 もし謙信の運が弱く、この志が空しいものならば、速やかに病死を賜るべし。 上杉謙信の名言 生を必するものは死し、死を必するものは生く。 上杉謙信の名言 武士は馬を我が足と思い、弓鎗を左右の手と定め、敵を撃つ刃は己の心と考え、常に武道をたしなむ事が、本意の核心である。 上杉謙信の名言 大事なのは義理の二字である。 死ぬべきに当たってその死をかえりみず、生きる道においてその命を全うし、主人に先立つ、これこそ武士の本意である。 上杉謙信の名言 昔時の名将は、暑日に扇をとらず、寒日に衣をかさねず、雨の日に笠を用いずして、士卒への礼とす。 上杉謙信の名言 信玄の兵法に、のちの勝ちを大切にするのは、国を多くとりたいという気持ちからである。 自分は国を取る考えはなく、のちの勝ちも考えない。 さしあたっての一戦に勝つことを心掛けている。 上杉謙信の名言 戦場の働きは武士として当然のことだ。 戦場の働きばかりで知行を多く与え、人の長としてはならない。 上杉謙信の名言 人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。 軽率なことは言ってはならぬ。 上杉謙信の名言 我は兵を以て戦ひを決せん。 塩を以て敵を屈せしむる事をせじ。 上杉謙信の名言 人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり。

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戦国武将の名言100選

戦国 武将 名言

織田信長や真田幸村をはじめ、戦国武将のファンは昔から大勢います。 面接などで尊敬する人物を聞かれて、戦国武将の名前を挙げる人もいるのではないでしょうか? 群雄割拠の時代を生き抜いた戦国武将たちには、数多くの魅力的なエピソードや名言が残されていて、その中には現代のビジネスパーソンの生き方にも通じるものがあります。 今回は、9人の戦国武将の言葉から、仕事に活かせる名言15個をご紹介します。 行動派!部下を引っ張るカリスマリーダー 戦国武将の中でも自らの行動で兵・部下たちを引っ張るカリスマ的リーダー3人の5つの名言を見てみましょう。 武田信玄とのライバル関係は有名であり、信玄没後に衰退した武田家を攻め入ることはせず、私利私欲のための戦はしない、義に忠実な武将として知られます。 謙信は越後で作られる布を「越後上布」というブランドにして、専売制を実施。 その布を自ら足利将軍家に売り込むなど経営者としても優れていました。 【名言】 「人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。 軽率なことは言ってはならない」 軽い気持ちで発した言葉が、他人の心を傷つけたり、思わぬ波紋を広げてしまうことがあります。 それは、人の上に立つ立場の人なら、なおさらのこと。 経営者、上司として軽率な発言を戒め、深き思慮をもって言葉を選ぶことの大切さを説いています。 23歳で奥州を制圧し、乱世の時代には勇猛果敢な若き武将として活躍。 その後は抜群の行動力で仙台藩を統治しました。 幼少時に患った天然痘の影響で右目を失明したことから「独眼竜」という呼び方でも知られています。 また、政宗の身につけるものは弦月の兜など特徴的でセンスの高いものばかりでした。 このことからオシャレな男性を「伊達男」と呼ぶようになったという説が流布されていますが、真相は不明です。 【名言】 「大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるがよし」 重大な選択をする際、他人に相談して意見を求めたり、さまざまな情報を調べることは大切ですが、最終的な判断は自分でするべきだという言葉です。 自ら決断したことは、腹をくくって進むことができますが、他人の意見に流されて失敗してしまえば、相談した相手を憎んだり、後悔が生じてしまいます。 奇抜なエピソードもありますが、その一方で目標設定を上手く活用した戦術家でもあり、非常に優れたカリスマリーダーでした。 有名な戦に「桶狭間の戦い」があります。 ここでは目先の利益である戦利品を奪うことはせずに、完全勝利という目的設定を徹底します。 また、「戦いに参加した者全員が末代まで英雄として語り継がれる」という、目的に対するリターンを明確に告げることで部下たちのモチベーションを向上させました。 【名言】 「臆病者の目には、常に敵が大軍に見える」 日本三大奇襲の1つ、「桶狭間の戦い」で2万5000の兵を擁する今川義元をわずか2000の軍勢で強襲し、討ち取った信長らしい言葉です。 (数字には諸説あり) 自分を過小評価して弱気になるのではなく、しっかりと戦略を練ったら、リスクを取ってチャレンジしないと、いつまでたっても勝利は得られないということを訴えています。 頭脳派!上司に気に入られて出世したリーダー 次に、カリスマ性や武力ではなく、頭脳で乱世に頭角を現した2人の戦国武将をご紹介します。 秀吉が信長へ行った、冬の寒い日に懐に草履を入れて温めたエピソードはあまりに有名ですが、他にも象徴的なものが数多く残っています。 例えば、増え続ける薪代のコストを下げるよう信長から指示された秀吉は、流通過程から調査し、問題のあった仕入れルートを排除。 代わりに城下の村にあった枯れ木を薪として利用しました。 その上で、この無料同然の薪代を「苗木代」、すなわち植林のための費用として徴収し、城下に植林を行い、自前で薪を賄えるようにしました。 まさに、そのまま現代のビジネスに通じるエピソードといえます。 【名言】 「上司の弱点を指摘してはならない」 どんな人にも弱点はあります。 しかしその弱点を部下から指摘されると、上司としては気分が良いものではありません。 表面上は納得してくれても、信頼関係を築くことは難しいでしょう。 上司の弱点に気づいたときは、そこを部下として補完することが大切です。 そのことで上司から信頼され、良い評価を受けられるでしょうし、責任のある立場に取り立ててもらうこともできるでしょう。 部下から慕われる!人材活用術に長けたリーダー 最後に、部下をうまく活用することに長け、理想の上司像として語られることの多い戦国武将を4人ご紹介します。 天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いの際に、亡き豊臣秀吉に恩義を感じていた信繁は、莫大な報酬で徳川家康率いる東軍から誘いを受けますが、これを断ります。 義を大切にしたリーダーです。 ちなみに「幸村」の名前が広く浸透していますが、正しくは「信繁」です。 【名言】 「いざとなれば損得を度外視できる、その性根。 世の中にそれを持つ人間ほど怖い相手はない」 ビジネスは損得勘定をベースに動きます。 しかし、人間関係において損得勘定のみを優先する人の周囲には同じような人ばかりが集まり、その人物と付き合っても損だとわかると潮が引くように皆去っていくものです。 信繁が日本人の心を捉えて離さない理由の一つは、損得勘定よりも義を優先した彼の姿勢にあることは間違いありません。 自身の失敗はもちろんのこと、味方の裏切りや秀吉の失敗、最終的には部下からも学ぶ家康の「学習能力」と「柔軟性」の高さが受け継がれ、江戸幕府は260年以上も繁栄を続けました。 【名言】 「いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある」 上司として「裸の王様」になることは避けたいもの。 家康も同じことを思っていたようです。 上司に進言することは、部下にはなかなかできません。 それをあえて、勇気を持って実行してくれる部下は、それだけで大切にするべき存在です。 上司になったとき、この言葉を忘れないようにしたいですね。 信玄は身分を問わず、部下の意見をよく聞き、部下が活躍すると高い評価を与え、モチベーションを高めることに常に配慮していました。 功績を上げた部下にはボーナスとして金を与えることもあり、慕われるリーダーの見本としても名を残しています。 【名言】 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」 戦いに勝つために必要なのは、堅固な城ではなく、人の力であるという、効果的な人材活用術で知られる信玄ならではの名言です。 また、後半は、「人に情けをかければ相手の心に届き、味方になってくれるが、相手に恨みを持たれれば敵になる」という意味であり、信玄のように日頃、大勢の猛者を部下として率いている人は、参考にしたい言葉です。 元親は弱みである山の多さを逆に強みと捉え、木材を管理し、職人たちの力で商品化を進めて経済難を回避しました。 地元産業の活性化に力を注ぐことで経済力をつけた政治家としてだけでなく、名経営者ともいえるでしょう。

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