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朝貢

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賀茂真淵の。 文化3 1806。 『』『語』などのを著わしたいわゆる五意考の一つ。 真淵は歌論,国学双方に大きなを残したが,は国学の復古を明確に打出した代表的著作である。 国意とは日本固有の精神の意で,彼は本書において,特に儒仏思想に対して日本古来の精神の優秀性を説いた。 知巧,強制,の儒仏思想を排して,自然のままに生活した日本 古道 にすべきだというの主張は,一方では国粋主義的偏狭に陥る方向性をもったが,他方では道徳の束縛から人間の性情を解放する意味をもった。 彼の歌論と結びついた復古主義はのち本居宣長に継承されていく。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 江戸時代の思想書。 国学者賀茂真淵 かもまぶち の代表的著作「五意考 ごいこう 」の一つ。 元来『国意 くにのこころ 』とよばれたらしい。 1765年(明和2)成立。 1806年(文化3)11月刊。 版本には、野公台(野村淡海)の「読加茂真淵国意考」および橋本稲彦の「弁読国意考」付載。 真淵の理想とした古道の根本思想を説いた論書で、日本固有の古 いにしえ の道は、儒教や仏教など外来思想によって曇らされたとし、儒教的な理想主義に対する反発から、老荘思想や近代の自然主義に通じるような一面もみえる。 古道については、歌道の意義を強調し、「ことわり」にとらわれず、自然の「まこと」に任せ、「和 にき び」を旨とすべきを説いている。

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天寿国繍帳

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東アジア [ ] 朝貢は、主に前近代のを中心としたの形態。 中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜を与えるという形式を持って成立する。 なお、周辺国が貢物を捧げることを 進貢(しんこう)、皇帝がその貢物を受け入れることを 入貢(にゅうこう)という。 朝貢には実質的な臣属という意味はなく、その点でとは区別される。 朝貢に対する恩賜が少なくて不満を抱いた進貢側が、帰り道で住民に略奪行為を行うこともあった。 [ ] 朝貢の「朝」は、の毎月16日の早朝に行われる皇帝との朝礼に、手土産として朝礼に参加することからが由来とされる。 中国 [ ] 《》,6世紀の梁朝。 を基調として周辺諸国のたちが、「中国の徳を慕って」朝貢を行い、これに対して回賜を与えるという形式である。 朝貢を行う国は、相手国に対して貢物を献上し、朝貢を受けた国は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜する。 経済的に見ると、朝貢は受ける側にとって非常に不利な貿易形態である。 から朝貢を受けることは皇帝のを示すことと見なされ、内外に向けて政権の正統性を示すことができるので、朝貢には莫大な費用がかかるにもかかわらず歴代中国政権は朝貢を歓迎してきた。 これには周辺と敵対して多額の防衛費や軍事費を負担するよりも、朝貢を受けて回賜を与えたほうが安上がりであるという現実もあった。 仮に周辺の異民族を討伐して支配下に置いたとしても、の低い地域に支配領域を広げるだけであり、税収よりも軍事支配のためのコストのほうが上回る。 つまり朝貢は中国政権にとって経済的に優れたシステムでもあった。 朝貢国にとっても、自分が正式な王であることを認められる上に、通常は貢物に対して数倍の価値の回賜が与えられたため大きい利益があった。 また朝貢に来る使節の人員に対しても多額の褒賞金が与えられたために、経済不振になった中国王朝では費用削減のために朝貢の回数を制限することもあった。 により中国王朝の臣下となった冊封国は原則的に毎年の朝貢の義務があるが、冊封を受けていない国でも朝貢自体は行うことが出来た。 例えばを送っていた当時の日本では日本側は「中国と対等貿易を行っていた」とし、中国側は「遠国である事に鑑み、毎年の朝貢の義務を免じた」としている。 に包含された冊封国からの朝貢は経済的な利益にとどまらず、の購入、情報の入手など、社会・文化的な利益も伴った。 しかし代においてこのシステムは破綻する。 に対しては辛うじて上位にたって中華王朝としての面目を保ったものの、新興に対しては宋王朝のほうが下位で貢物を差し出す事となった(貢物を受け取る側が貢物を超える回賜ができなかったとも言える)。 代においては朝貢と言った形式はなかったが、になると再び朝貢形式が採られた。 の大遠征により、多数の国々からの朝貢を受けることになった。 しかし回賜の経費が莫大であったことから、その後に明は朝貢制限へと方針転換し、明の10年()には2年に一貢となり、朝貢一行も100人以下と厳命される。 清と朝貢国は「属邦自主」の原則にあり、朝貢国の内政・外交を清が直接支配はしなかったが、属国と上国という上下の秩序にあり、・・()・・()・・の朝貢国の君主が清と主従関係を結んだ。 ヨーロッパに対しても、朝貢感覚で貿易を継続しようとしたが、ヨーロッパ諸国に傲慢な態度として憎まれ、結果、などが勃発し、逆に中国が半植民地化する要因となった。 さらに及びやにおける清の敗北により、や、からの朝貢も終了した。 これ以降、朝貢という形式での対外関係は消滅した。 日本 [ ] 古代 [ ]• 対中国 後漢の代より国からの朝貢が記録に残る。 が日本列島の支配者にして朝鮮半島南部の徴発権、軍事指揮権、裁判権を持つ指導者として認可され、中国のに対して断続的に朝貢を続けていた。 これはにおける支配権を中華秩序の中で承認して貰う(百済は南朝、高句麗は北朝に朝貢している)為である。 倭王武は「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、南朝による叙任を求めたが、南朝は「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」に叙任する(南朝が冊封した百済が省かれている)。 これは南朝が朝鮮半島南部の徴発権、軍事指揮権、裁判権は倭国にあると認めた事を意味した。 中国の南北朝時代は、北朝の隋による統一で終焉する。 それに従い倭も隋に使者を派遣()するが、国書を携えずに遣使した。 二度目の遣隋使において、倭王は「天子の国書」を送ってのを激怒させた。 の時代には、日本の側の君主は「」を既に公称しており「唐の皇帝と対等の立場で貿易を行っていた」とされる。 しかし天平勝宝5年()の朝賀において、日本が新羅と席次を争い、日本側の言い分を通した事件があり、少なくとも唐からは新羅同様の朝貢国とみなされていた事がわかる。 唐から朝貢国として扱われている事実は、日本側でも周知の事であった。 しかしながら冊封国である突厥や渤海が同様に席次を争った事例では、唐は要求を却下しており、日本は他国よりは上位とみなされていた。 隋の統一以降、中国の冊封体制に加わることはなかった。 のや、・とも交流があったが、日本の王を自称するやなどの日本の有力者、中国の民間の商人によるものであり、正式な国家交流ではなかった。 呉越国は国交を求めたが、かつて「唐と対等に国交を結んでいた」日本側より拒否されている。 なお、に編纂された『』の論賛では『後漢書』以降の中国正史にある朝貢の記事は全て虚偽の記述か偽使によるものとして、史実として否定した。 だが、年間に『後漢書』の記事を裏付けるが発見されたことでその主張が覆された。 なお、論賛はの没後にによって書かれたものとされ、内部でも論賛そのものの必要性について意見の対立があり後に『大日本史』本文からは削除されている。 中国以外 隋書の倭国伝には「新羅・百濟は、みな俀を以て大国にして珍物多しとなし。 並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す」との記述がある。 百済と新羅が戦略上、倭国との関係を維持する必要から物品や人質を送っており、朝貢を行った。 このような関係を反映した記述であり、国力が充実した本当の意味での「大国」ではなく、国際情勢という外的要因に左右される性質の強い「大国」だったという説(森公章)や隋書における「大国」の用例を分析し、そもそも今日的な意味での「大国」とは大きく異なることを指摘(隋書における「大国」とは、「内に礼節を整え保持するとともに、礼的秩序をととのえ得る国」である)し、この記述の意図を600年の遣隋使以降に倭国が隋の礼制の摂取を推進してきたことを追認した上で、隋の対高句麗戦争のために倭国が創建した「大国」的構造を隋の礼的秩序社会に編入する政治的意図の表れとする説(黒田裕一)がある。 森公章は黒田説について「大国」の意味合いは、その通りかもしれないが現実の通交関係にも目配りすべきだと述べている。 また、堀敏一は倭国からの遣隋使が主観的な大国意識を隋に伝え、それが反映されたものに過ぎず、そのような実態はなく、その域を出ないとする。 また7世紀中頃に、朝鮮のに古代から中世にかけて存在した王国であるが、唐の侵攻を恐れて日本に朝貢したと日本書紀に記されている。 との貿易においては、渤海の側が日本に対してを派遣し、渤海側は日本に対し「朝貢」をした。 当時の日本の国力では、毎年の「朝貢」に対して回賜を行う能力は無く、12年に1度に制限するに至った。 中世 [ ] に悩まされる明は、日本側に有利な朝貢関係の設定と引き換えに倭寇を取り締まらせようとする。 日本の期に九州に派政権を構えていたが「良懐」として明に朝貢を行う。 その後3代将軍のが明朝に対して使節を派遣して「日本国王」に冊封される。 以後、外交文書に使用して(勘合貿易)を開始。 父の名目的対明臣従路線を嫌った4代将軍による一時的な停止はあったものの日本側に有利な下賜による利益は捨てがたく、6代将軍義教により再開され、以降を通じて行われた。 はの下賜を一度認められた。 は、・・・・に加えて、・に使用する楽器まで下賜されている。 近世 [ ] の弱体化により、などの大名によりが継続される。 には、の朝鮮出兵()が行われ、日明関係は断絶。 には一応関係は修復されるが、は朝鮮とは国交を結んだものの、とは正式に国交を結ばず、民間交流レベルの貿易や、に制圧されたを通しての間接的な関係となった。 徳川将軍は朝鮮に対して「」と称して国交を結んだ。 「大君」の称号は、朝鮮では王ではなく王子の嫡子を意味する称号であったため、の時代には一時期「」と称したこともあったが、の時代には元の「日本国大君」に戻された。 備考 [ ]• 『』には、「毎年、(諸王)は(皇帝)の元にを派遣し、3年ごとに(王の下、執政を行う大臣)を派遣し、5年ごとに諸侯自らが朝貢する」と記され、大夫派遣を「小聘(へい)」、卿派遣を「大聘」というとする。 これに従うなら、が諸侯で、その弟が卿に当たるが、とそれ以前の倭王は大夫しか送っておらず(『』)、邪馬台国において諸侯自らが朝貢したという記録はない。 奈良時代の日本側は唐から派遣された使者を伴って帰国することを嫌がった(後述書 p. 90)。 理由として、日本の律令では、唐も新羅などと同様に外蕃、すなわち中華帝国の周辺にあって、これに従属する国・地域としていたためである(後述書。 日本を中国と称する記述は、『続日本紀』にも見られる)。 唐の律令では、逆に、唐が中華であり、周辺国が外蕃という前提に作られているが、その姿勢を日本はそのまま導入して、大宝・養老律令という形で編纂したために、唐も外蕃の一つとなってしまった(後述書 p. 90)。 ところが現実問題として、日本は唐に朝貢していたため、外交上は唐を格上と認めていたことになるが、それを理解していたのは、政府上層部くらいであり、実感があったのは大陸に渡った使者程度である(後述書 p92)。 そこで問題となったのは、唐の使者に対する応接の仕方であり、天皇が御座から降りて北面して、唐皇帝の代理である使者が南面になって、相対することが強要されることであった(後述書 p. 93)。 天皇が北面した例としては、聖武天皇が東大寺の大仏に対して北面した例があるが、これは聖武天皇が「三宝の奴」を自認していたためである(後述書 p. 93)。 『旧唐書』にも、「使者を送ったが、倭の王子と礼を争い、とうとう使命を述べずに帰国してしまった」とあり、すでに前例があったとみられ、以降、日本側が面倒になることを嫌がったとみられる(後述書 p. 94)。 しかし、宝亀10年(779年)に至り、議論はあったものの、「天皇の降座やむなし」という見解が勝利を収めた(坂上康俊 『日本の歴史05 律令国家の転換と「日本」』 講談社 2001年 pp. 90 - 94)。 西アジア [ ] にも属国との間に朝貢関係があり、、、、、、、、など20を超す民族の朝貢使がを訪れた。 世界遺産であるペルセポリス遺跡のアパダーナ(謁見の間)の東壁面には23人の使節がペルシャ王に謁見する様子が描かれている。 脚注 [ ] []• 神余秀樹『神余のパノラマ世界史古代〜フランス革命』学研教育出版、2010年7月、180頁。 岡田英弘『皇帝たちの中国』原書房、1998年。 、『中華帝国の危機』〈世界の歴史 19〉、1997年、12頁。 勢田道生 「『大日本史論藪』所収外国伝賛の対外史認識」、井上泰至編 『近世日本の歴史叙述と対外意識』 勉誠出版、2016年7月。 「アジア城市(まち)案内」制作委員会『イラン005ペルセポリス〜麗なる「王都」』まちごとパブリッシング、2016年8月、49頁• 「アジア城市(まち)案内」制作委員会『イラン005ペルセポリス〜麗なる「王都」』まちごとパブリッシング、2016年8月、48頁 関連文献 [ ]• 『朝貢システムと近代アジア』岩波書店、1997年。 関連項目 [ ]• (華夷秩序)•

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繍帳残片(2点) 天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、のが所蔵する、()の染織工芸品。 天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)とも呼ばれる。 銘文によれば、の死去を悼んで妃のが作らせたという。 「天寿国繍帳」とは「聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した帳(とばり)」の意であり、「天寿国」とは、の住する西方浄土を指すものと考証されている。 古記録に基づく考証によれば、制作当初は縦2メートル、横4メートルほどの帳2枚を横につなげたものであったと推定されるが、現存するのは全体のごく一部にすぎず、さまざまな断片をつなぎ合わせ、縦88. 8センチメートル、横82. 7センチメートルの額装仕立てとなっている。 このほかに断片2点が別途保存されている。 断片のみの現存であるが、飛鳥時代の染織工芸、絵画、服装、仏教信仰などを知るうえで貴重な遺品であり、に指定されている。 制作の経緯と銘文 [ ] 本来は、繍帳自体に製作の事情を記した銘文が刺繍で表されていた。 現存する天寿国繍帳には4か所に亀が描かれ、それぞれの亀の甲羅に漢字が4字ずつ刺繍で表されているが、これらの文字は繍帳に表されていた銘文の一部である。 たとえば、現存の繍帳の左上にある亀形には「部間人公」の4字が見えるが、これは「孔部間人公主」という人名の一部である。 額装の繍帳とは別に保管されている残片2点のうちの1点も亀形であり、これを含めても現存する亀形は5個、文字数は20字にすぎないが、制作当初の繍帳には全部で100個の亀形が表され、その甲羅に計400文字が刺繍されていたと推定される。 この銘文の全文は『』に引用され、一部に誤脱があるものの、の考証によって400字の文章に復元されている。 以下に『天寿国繍帳』の銘文の原文を掲げる(『上宮聖徳法王帝説』に引用された銘文をもとに、飯田瑞穂が考証・校訂を加えたもの)。 銘文は繍帳の上では4文字ずつに区切って表されていたので、ここでも4文字ずつに区切って表記する。 太字の5か所(20文字)は現存する繍帳に残っている文字である。 斯帰斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意 斯波留支 比里爾波 乃弥己等 娶巷奇大 臣名伊奈 米足尼女 名吉多斯 比弥乃弥 己等為大 后生名多 至波奈等 已比乃弥 己等妹名 等已弥居 加斯支移 比弥乃弥 己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 弥己等為 后生名孔 部間人公 主斯帰斯 麻天皇之 子名蕤奈 久羅乃布 等多麻斯 支乃弥己(3字目は草冠の下に左に「豕」、右に「生」 等娶庶妹 名等已弥 居加斯支 移比弥乃 弥己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名 尾治王多 至波奈等 已比乃弥 己等娶庶 妹名孔部 間人公主 為大后坐 瀆辺宮治 天下生名 等已刀弥 弥乃弥己 等娶尾治 大王之女 名多至波 奈大女郎 為后歳在 辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母 王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩 于時多至 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天 皇前曰啓 之雖恐懐 心難止使 我大皇與 母王如期 従遊痛酷 无比我大 王所告世 間虚仮唯 仏是真玩 味其法謂 我大王応 生於天寿 国之中而 彼国之形 眼所叵看(終わりから2字目は「はこがまえ」に「口」 ) 悕因図像 欲観大王 往生之状 天皇聞之 悽然告曰 有一我子 所啓誠以 為然勅諸 采女等造 繍帷二張 画者東漢 末賢高麗 加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻 (読み下しの例)銘文の前半部分(欽明天皇から聖徳太子、橘大女郎に至る系譜を記す)は割愛し、繍帳の制作経緯に係る内容が記された後半部分の読み下し文を掲げる。 歳(ほし)は辛巳に在(やど)る十二月廿一癸酉日入(にちにゅう)、孔部間人(あなほべのはしひと)母王崩ず。 明年二月廿二日甲戌夜半、太子崩ず。 時に多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)、悲哀嘆息し、天皇の前に畏み白(もう)して曰く、之を啓(もう)すは恐(かしこ)しと雖も懐う心止使(とど)め難し。 我が大皇と母王と期するが如く従遊(しょうゆう)す。 痛酷比(たぐ)ひ无(な)し。 我が大王の告(の)る所、世間は虚假(こけ)、唯だ仏のみ是れ真なり、と。 其の法を玩味するに、謂(おも)えらく、我が大王は応(まさ)に天寿国の中に生まるるべし、と。 而るに彼の国の形、眼に看叵(みがた)き所なり。 悕(ねがは)くは図像に因り、大王往生之状(さま)を観むと欲す。 天皇之を聞き、悽然として告(の)りて曰く、一の我が子有り、啓(もう)す所誠に以て然りと為す、と。 諸(もろもろ)の采女等に勅し、繍帷二張(ぬいもののとばりふたはり)を造る。 画(えが)く者は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、又漢奴加己利(あやのぬかこり)、令(うなが)す者は椋部秦久麻(くらべのはだのくま)なり。 (上記読み下し文の大意) 辛巳の年(29年・西暦)12月21日、聖徳太子の母・(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。 これを悲しみ嘆いた太子の妃・は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。 「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。 太子は『世の中は空しい仮のもので、仏法のみが真実である』と仰せになった。 太子は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。 せめて、図像によって太子の往生の様子を見たい」と。 これを聞いた推古天皇はもっともなことと感じ、采女らに命じて繍帷二帳を作らせた。 画者(図柄を描いた者)は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)であり、令者(制作を指揮した者)は椋部秦久麻(くらべのはだのくま)である。 銘文にある「天寿国」とは何を指すかについては古来さまざまな説があった が、阿弥陀仏の住する西方極楽浄土だという説が有力である。 は、飛鳥・奈良時代には阿弥陀浄土以外にも薬師浄土、弥勒浄土など複数の浄土への信仰があったことをふまえ、「天寿国」とは天界の寿命を生きられる国、すなわち弥勒の浄土である兜率天を指している可能性を指摘する。 伝来 [ ] 鎌倉時代の再発見 [ ] この繍帳はいつの頃からか所在不明になっていたが、古記録によれば、鎌倉時代の11年()、中宮寺の中興の祖とも称される尼僧・により、の蔵から再発見された。 信如は、日本仏教における戒律の復興者として知られるの弟子・璋円の娘とされ、中世に荒廃していた中宮寺の再興に尽力した。 信如による天寿国繍帳再発見については、建治元年(1275年)定円が著した『太子曼荼羅講式』、の『聖誉鈔』(しょうよしょう)などに次のように記されている。 信如は、中宮寺の復興を志していたが、寺の開基である間人皇后の命日がわからず、それを何とかして知りたいと思っていた。 そうしたところ、文永10年()のある日、信如は夢告により、間人皇后の命日は、法隆寺の蔵にある曼荼羅に書かれていることを知った。 法隆寺の蔵の中を捜す機会はすぐには訪れなかったが、翌文永11年(1274年)、法隆寺綱封蔵(ごうふうぞう)に盗人が入り、蔵の中を改めた際に、件の曼荼羅を発見。 そこに刺繍された銘文を解読した結果、信如は間人皇后の命日は12月21日であると知ることができた。 そして、この太子ゆかりの曼荼羅と同じ図柄の模本を新たに作らせ、元年()に開眼供養を実施。 原本、模本ともに中宮寺の寺宝となったという。 信如による再発見の経緯である「寺の開基である間人皇后の命日がわからなかったから」というのは理由として不自然だという指摘は、すでに江戸時代の学者であるが述べている。 この点について、美術史家の大橋一章は、「間人皇后の命日については複数の説があったので、信如は直接原典に当たって正確な命日を知ろうとしたのではないか」「天寿国繍帳を再興中宮寺の目玉にしようとしたのではないか」と述べている。 文保本『聖徳太子伝記』によれば、2年()頃には、建治元年作の新曼荼羅は中宮寺金堂の柱間三間にわたって幕のように張り渡されていたという。 中宮寺旧境内の発掘調査の結果から、金堂の柱間は約2. 6メートルであり、「柱間三間」は約7. 8メートルとなる。 大橋一章は、この柱間寸法から考えて、横幅約4メートルの繍帳2帳を横方向につなげていたのではないかと想定し、当時は新繍帳が堂内に飾られ、太子ゆかりの旧繍帳は蔵に保管されていたのではないかと推定している。 近世以降 [ ] 新旧2つの繍帳ともに、数百年後には破損が進み、断片化していた。 『法隆寺記補忘集』(ほうりゅうじき ぶもうしゅう)によると、16年()の時点で、新旧繍帳ともにもはや原形をとどめておらず、50 - 60片の断片が保存されているのみであった。 12年()の『観古雑帖』によれば、年間( - )に残った断片群を寄せ集めて掛軸装とした。 30年()、に基づき「天寿国曼荼羅図刺繍掛幅 一幅 東漢末賢等画 采女等繍」の名称で当時の国宝(旧国宝)に指定された。 大正8年()、掛軸は額装に改められた。 同年、から断片2点が発見され、中宮寺に下賜された。 このうち1点は亀形、もう1点は座る人物3人を横並びに表したもので、いずれも鎌倉新繍帳の断片である。 これらの断片が正倉院に保管されていた理由は次のように推定されている。 明治11年()、法隆寺から皇室に献納されたいわゆるは、一時正倉院に保管されていたが、これを東京へ移送する際、手違いがあって、正倉院の唐櫃1合を東京に運んでしまい、逆に法隆寺の唐櫃1合は正倉院に残されたままとなった。 天寿国繍帳の断片はその唐櫃に含まれていたのではないかという。 この2点は10年()、別途「刺繍天寿国曼荼羅図断片 二点」として旧国宝に指定された。 昭和25年(1950年)8月29日、施行にともない、従前の旧国宝はとなった。 26年()付けで上述の「掛幅」と「断片」の2件の重要文化財を1件に統合し「天寿国繍帳残闕 一帳 附同残片二」(てんじゅこくしゅうちょうざんけつ 1ちょう つけたりどうざんぺん2)という名称であらためて重要文化財に指定され 、次いで昭和27年()付けで文化財保護法に基づく国宝(新国宝)に指定された。 繍帳はガラス張りの厨子に納められ、長らく中宮寺本堂内に安置されていたが、保存の万全を期すため、昭和57年()からに寄託され、寺にはレプリカが置かれている。 技法と制作年代 [ ] 現状の額装繍帳は、上下3段、左右2列、計6枚の絹布を貼り合わせたもので、各絹布には飛鳥時代の原繍帳と鎌倉時代の新繍帳の断片が脈絡なく貼り付けられている。 ここでは説明の都合上、刺繍断片のある位置を「上段右」「下段左」のように表すこととする。 現状の繍帳を見ると、たとえば上段左の亀形や月(中に兎がみえる)、中段右や中段左の区画の人物群像の一部などは形の崩れがなく、刺繍糸の色も鮮やかに残っている。 これに対して、たとえば下段左の建物とその内部の人物を表した部分などは色糸がほつれ、褪色し、図柄が定かでない。 染織史家のらの調査によれば、前者の色彩鮮やかな部分が飛鳥時代の原繍帳の断片であり、後者、すなわち糸がほつれ褪色している部分が鎌倉時代の新繍帳の断片である。 刺繍が行われている台裂(だいぎれ)には、(絹糸を用いた綟り織の一種)、、(の絹)の3種がある。 このことを最初に指摘したのは明治・大正期の美術史家・(ただより)であり、昭和期に入って太田英蔵が下地裂と制作年代の関係、用いられている刺繍技法の種類などについて詳細な研究を発表した。 太田によれば、飛鳥時代と推定される、台裂に紫色の羅が用いられている部分では、人物の服装、蓮弁、銘文の漢字など、全てのモチーフは輪郭線を刺繍で表し、その内側を別色の糸で密に繍い詰めている。 糸は撚りが強く、中心部まで深く染められており、刺繍は返し繍という単純な技法(一針繍い進めると、少し後退した位置から針を布の表面に出し、また一針繍い進めては後退する、という作業を繰り返す繍い方)のみが使用されている。 撚りの強い糸を使い、単一の技法(この場合は返し繍)で密に繍い詰めるのは飛鳥時代刺繍の特色で、等のや、出土の刺繍にも同様の技法がみられる。 これに対し、宝物などにみられる奈良時代の刺繍は、撚りのない平糸を用い、刺繍も多種の技法を使い分けるのが特色である。 一方、鎌倉時代と推定される、台裂に綾または平絹を用いた部分には、平繍、繧繝刺(うんげんざし)、朱子刺、駒繍、文駒刺(あやこまさし)、束ね繍、長返し繍、纏い繍、表平繍いの9つの技法が用いられている。 さまざまな刺繍技法を駆使しているが、その分、糸が台裂から浮き上がる部分が多く、染料が糸の中心部までしみ込んでいないものが多い。 現存の繍帳には、文字の入った亀形が4つ残されている(別に保管される断片を含めれば5つ)。 このうち「部間人公」の4文字の入った亀形のみは色が鮮やかで、字画も細部まで鮮明であるのに対し、他の3つの亀形は形が崩れ、色もあせている。 これも、前者が飛鳥時代、後者が鎌倉時代の制作である。 以上のように、現存する天寿国繍帳の古い部分は聖徳太子(622年没)の没後まもない頃の制作とみなすのが通説となっているが、これには異説もある。 東野治之は、繍帳銘文は太子の没後かなり時間が経ってから作成されたものだとする。 その論拠の一つは、銘文中の天皇の呼称である。 銘文では推古天皇をトヨミケカシキヤヒメ(等已弥居加斯支移比弥)と呼称しているが、東野はこの呼称は推古に対する和風の諡号(しごう、贈り名)であって、この呼称の使用は推古の没した628年以降のものであるとする(これについては、「トヨミケカシキヤヒメ」は生前から用いられていた尊称だとする意見もある)。 今一つの論拠は銘文の文体・内容である。 東野によれば、繍帳銘文は橘大女郎と推古天皇の発言を直接話法で記すなど、一般的な造像銘の文体とは異なり、縁起文のような体裁をとっていることから、太子没後かなり時間が経ってからの作成であるという。 東野は、推古天皇の指示により東漢末賢(やまとのあやのまけん)らが制作した原繍帳の存在は否定しないが、現存の繍帳は法隆寺の焼失(670年)・再建に際して再制作されたものと位置づけ、「法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳」(天平19年・747年成立)に記載される天武天皇(在位673 - 686年)が寄進した「繍帳二張」が、現存の繍帳にあたるとしている。 図柄と復元案 [ ] 鎌倉時代の『聖徳太子伝記』や、新繍帳の開眼供養を行った僧定円の『太子曼荼羅講式』に、繍帳が完全に残っていた当時の図柄が説明されている。 それによると、繍帳の中心には「四重の宮殿」があり、上方には日と月、左右には鐘と磬(けい)があったという。 このうちの「月」は現存繍帳の上段左の区画に残っており、鐘と磬のうちの鐘は、下段右にある鐘撞き堂がそれにあたると推定される。 その他にも、元の図様を復元する手がかりになる断片がいくつか残されている。 下段左の区画には建物の上下にそれぞれ連珠文を表した水平の帯状区画がある。 この部分は繍帳全体を囲む外枠部分を構成していたものと推定される。 その上、中段左の区画の下部には4本の水平線と三角形からなる楽譜のような図柄が見えるが、これは天寿国(西方極楽浄土)の宝池を表すものと思われる。 その右方と右上方には大きな蓮弁の一部が見えるが、これはその大きさからみて、天寿国の主尊である阿弥陀仏の台座の一部であったものと推定されている。 繍帳の当初のデザインを復元する上で、鍵になるのは上段左の区画である。 ここには、パルメット文、鳳凰、亀形、飛雲などが刺繍されているが、これらが刺繍されている台裂は切れ目なく一続きになっており、飛鳥時代の紫色羅である。 つまり、前述のパルメット文、鳳凰、亀形、飛雲などは、制作当初の原繍帳においても現状と同じ配置になっていたことが確実である。 大橋一章は、以上のような手がかりを踏まえ、NHKの協力を得て、による再現繍帳を2001年に制作している。 その再現案によると、繍帳は縦約2メートル、横約4メートルのもの2帳で、うち1帳には天寿国に生まれ変わった聖徳太子像、他の1帳には阿弥陀如来像をそれぞれ中央に表し、周囲は羅地の上に蓮華化生(れんげけしょう、往生者が天寿国に生まれ変わる様を表したもの)、人物、鳳凰、飛雲、亀形などを配したものである。 人物の服装をみると、男女とも(あげくび)と呼ばれる丸い襟に筒袖の上着を着け、下半身には男子は、女子はを着けている。 また、男女とも(ひらみ、袴や裳の上に着けた短い襞状のもの)を着けるのが特色で、これは壁画の男女像よりも古い服制であることが指摘されている。 繍帳にみられるパルメット文と同様の文様はにもみられ 、技法、意匠の両面から、原繍帳は飛鳥時代・7世紀の作であることが首肯される。 脚注 [ ]• 飯田 1965• ここでは(東野、2017)、pp. 31 - 32による。 飯田 1965• 大橋、谷口 2002• 谷口 大橋、谷口 2002)及び 松浦 東京国立博物館 2006 は蔵の『』巻第四十六のの3年()の奥書の中の「西方天寿国」を根拠の一つとしている。 これを最初に指摘したのはである。 しかし、この文字は、「无(無の略体)寿國」と読むべきではないかという異論も昭和13年から提起されており、またこの写経自体が20世紀初期の偽作であるという見解もあるので、根拠とはし難い(三井文庫 2004 p67 参照)。 (東野、2017)pp. 114 - 118• 大橋、谷口、pp47 - 50• 明治30年12月28日内務省告示第88号• 『週刊朝日百科』「日本の国宝4」p4-110、解説執筆は松本包夫• 大正10年4月30日文部省告示第353号• 重要文化財指定解除及び指定(昭和27年文化財保護委員会告示第13号)、昭和27年5月22日付け『官報』第7609号、403頁。 重要文化財の国宝指定(昭和27年文化財保護委員会告示第21号)、昭和27年10月16日付け『官報』号外第116号、9頁。 東京国立博物館、澤田、p18• 東京国立博物館、澤田、p10, 17• (東野、2017)pp. 109 - 113• 東京国立博物館、松浦、p14 参考文献 [ ]• 大橋一章、谷口雅一『隠された聖徳太子の世界 復元・幻の天寿国』、日本放送出版協会、2002• 大橋一章『斑鳩の寺』(日本の古寺美術15)、保育社、1989• 東京国立博物館編集・発行『国宝天寿国繍帳』、2006(解説執筆は松浦正昭、澤田むつ代)• 『週刊朝日百科』「日本の国宝4 法起寺 中宮寺 当麻寺 当麻寺奥院」、朝日新聞社、1997• 小山満『仏教図像の研究 : 図像と経典の関係を中心に』、早稲田大学リポジトリ、• 飯田瑞穂, 天寿国繍帳銘をめぐって, 古美術 11号, 1965年 11月,pp 39-49, 三彩社, 東京• 三井文庫, 三井文庫別館蔵品目録 敦煌写経ー北三井家ー, 2004年1月, 三井文庫, 東京• 東野治之『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて』(岩波ジュニア新書)、岩波書店、2017.

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