三好 長慶。 三好長慶が自前の将軍を担がず、室町幕府の実権を掌握できたのは何故...

三好長慶 【 戦国武将 人物解説と年表 】

三好 長慶

三好長慶の生い立ち 三好長慶は戦国時代にあたる大永2年 1552 2月13日、父・三好元長、母・慶春院殿南岸智英大姉の嫡男として現在の徳島県三好市で誕生しました。 父・三好元長は山城国下五郡守護代であり、室町幕府管領・細川晴元の重臣であったとされ、細川晴元の仇敵である細川高国を滅ぼしたことから、功労者として認められていました。 しかし、三好長慶が10歳となった享禄5年(1532)6月、功労者として認められ本国阿波のみならず山城国にも勢力を伸ばしていた父・三好元長は、その勢威を恐れた主君・細川晴元、また一族の三好政長・木沢長政らの策謀によって勃発した一向一揆によって命を落とします。 一向一揆を鎮圧 父・三好元長を死に追いやった一向一揆は、勢威を恐れた主君・細川晴元らによって策謀されたものでしたが、父・三好元長亡き後も一向一揆の勢いは収まらず、遂には 細川晴元の手にも負えなくなり、享禄・天文の乱と呼ばれる戦乱にまで発展しました。 そこで、 未だ元服を迎えていない三好長慶が天文2年(1533)6月20日、一向一揆と細川晴元の和睦を斡旋したところ、父・三好元長の死後1年にして、細川晴元と一向一揆の関係は石山本願寺で和談するまで回復したとされています。 三好長慶は一向一揆と細川晴元の和睦を斡旋した直後の11歳になった頃に元服したとされています。 しかし、15歳になるまでは「千熊丸」という幼名で呼ばれていました。 細川晴元に仕える 元服を迎えた天文2年(1533)8月、三好長慶は本願寺から分離する講和に応じない一揆衆が蜂起したため、三好長慶は一揆衆を抑えるため一揆を戦い、摂津越水城を奪回します。 翌年の天文3年(1534)8月11日には本願寺に味方し細川晴元軍と、10月には潮江庄(尼崎市)において細川方についた三好政長と争いましたが、この時、三好長慶はまだ少年であったこと、また河内守護代・木沢長政の仲介によって、三好長慶は細川晴元に仕えることとなりました。 主君・細川晴元との対立 その後も三好長慶は細川晴元の家臣として戦に参加しました。 天文8年(1539)1月15日、 三好長慶は主君・細川晴元に対し河内十七箇所の代官職を自らに与えるよう要求します。 もともとこの職は三好長慶の亡き父・三好元長が就いていたものでした。 しかし、 父の死後、この職に任命されたのは同族でもあり政敵であった三好政長だったのです。 これに対し、三好長慶は三好政長ではなく自身を河内十七箇所の代官職を自らに与えるよう細川晴元に要求しましたが、聞き入れてはもらえませんでした。 このようなことがあり、 三好長慶は主君・細川晴元と良好な関係を築くことができなかったとされています。 そのため、12代将軍・足利義晴は細川晴元と三好長慶の和睦交渉を斡旋するなど、関係回復のための工作を続けました。 そんな中、政局の変化によって京都の治安が悪化します。 そのため 将軍・足利義晴は三好長慶に対し京都の治安維持をするよう命じました。 京都の治安維持を命じられる 将軍・足利義晴から京都の治安維持を命じられた三好長慶は本国・阿波を後にし天文8年(1539)8月に摂津越水城に入城しました。 入城以降は本国・阿波に戻らなかったとされているため摂津国を三好氏の本拠地にしたということが分かります。 その後、三好長慶は摂津守護代となり幕府に仕えるようになり、摂津・河内・北陸・近江の軍勢を上洛させるなどしました。 このようにして三好長慶は将軍・足利義晴と信頼関係を築いていくことととなりましたが、一方で主君・細川晴元は三好長慶の実力に脅威を感じはじめ、ますます2人の関係は悪化となっていくこととなりました。 主君・細川晴元との関係の悪化 天文10年(1541年)9月頃、 三好長慶は主君・細川晴元の許しを得ず、独断で段銭徴収を行います。 これに対し、主君・細川晴元は段銭徴収をやめるよう命じました。 しかし、三好長慶は主君・細川晴元の命令を無視し、主君・細川晴元に対し敵意を表します。 このように2人が対立する中で、三好長慶に味方するものがどんどんと増え始め、三好長慶の実力は石山本願寺にも認められる程となっていました。 しかし、天文16年(1547年)3月頃になると、 三好長慶と主君・細川晴元は和睦したとされ、両者の関係は一時的に回復に向かいます。 三好政権の誕生 主君・細川晴元と和睦を結んだあとは同族であり政敵である三好政長もともに軍事行動を共にしましたが、再び三好政長と関係悪化となり、天文17年(1548)7月、三好長慶は三好政長を討とうと決意します。 そのため翌月の8月に主君・細川晴元に対し三好政長父子の追討を願い出ましたが、主君・細川晴元は三好政長に対し厚い信頼を注いでいたため、追討の願いは受け入れられませんでした。 これによって 三好長慶は10月18日、かつての敵である細川氏綱・遊佐長教と手を結び、主君・細川晴元に対し反旗を翻し天文18年(1549)2月、三好長慶軍と同族の三好政長の戦いである江口の戦いが勃発します。 この戦いにおいて 三好長慶は勝利を収め、 主君・細川晴元、三好政長は撤退に追い込まれる結果となり、これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権の誕生となったのです。 足利義輝との対立 天文19年(1550)2月、この頃、 近江国に亡命をしていた足利義晴が京都奪回を図り中尾城を築きます。 足利義晴は三好長慶と細川晴元が対立した際、細川晴元に味方していましたが、江口の戦いにおいて細川晴元が敗れたため、近江国へと亡命していたのです。 しかし、天文19年(1550)5月に 足利義晴が病死すると、その息子・足利義輝が京都奪回を図ります。 京都奪回を図る足利義輝は天文19年(1550)、三好長慶軍と交戦するも敗走します。 中尾城の戦い しかし、この時は三好長慶と対面することなく、尾張国へと戻っていきました。 信長が上洛したのは、機内で実権を掌握していた三好長慶の評判を聞くためだったのではと考えられています。 また同年、三好長慶の嫡男・慶興が将軍の足利義輝から「義」の字を与えられ「義長」と改名するなど、 三好長慶の権威は英華を極めていました。 しかし三好長慶の英華は長くは続かず、和泉の支配を任せていた弟・十河一存が永禄4年(1561年)4月に急死したのを機に、 三好長慶の衰退が始まります。 和泉を支配していた弟・十河一存が急死したため、和泉の支配が脆弱し、それを機に畠山高政と六角義賢が三好家に攻撃を仕掛けてきたのです。 久米田の戦い この戦いにおいて弟の三好実休が戦死しています。 松永久秀の活躍 一方、京都では松永久秀と三好長慶の嫡男・三好義興が三好軍を率いて善戦し、永禄5年(1562年)5月19日に和泉を支配していた畠山高政を追放し河内を再平定、翌月の6月に京都を一時的に支配していた六角氏と三好家を和睦に導きます。 こうして松永久秀と三好長慶の嫡男・三好義興の働きによって三好家は畠山高政と六角義賢の争いに勝利することとなりましたが、 三好長慶がこの戦いに出陣した形跡はなく、この頃から病に犯されていたと考えられています。 三好家の衰退 永禄5年(1562年)8月、幕府の政所執事・伊勢貞孝が畠山・六角の両家と通じ、京都で挙兵します。 しかし、翌月の9月に松永久秀と嫡男・三好義興によって伊勢貞孝は討たれます。 このように、松永久秀は三好家において多くの功績を残すようになり、三好家の次第に握るようになりました。 そんな中、永禄6年(1563)1月和泉で根来衆と三好軍が激突、また大和においても松永久秀の三好軍と多武峯宗徒の衝突が勃発、永禄6年(1563)2月には細川晴元の残党による反乱が勃発するなど、各地で反三好家による対立が勃発しました。 また永禄6年(1563)8月には三好長慶の嫡男・三好義興が22歳若さで亡くなり、12月になると名目上の主君・細川氏綱も病死します。 このように三好政権の政権維持に必要であった形式上の管領などを失ったことで三好政権は徐々に中核から崩れかけていくのでした。 実は、三好長慶の相次ぐ身内の不幸は部下である 松永久秀による暗殺によるものではないかと考えられてます。 三好長慶の最期 永禄7年(1564)5月9日になると松永久秀は三好長慶に対し、弟の安宅冬康が謀反を企んでいると忠告します。 息子を亡くし、名目上の主君も亡くした三好長慶はショックのあまりこの忠告を信じ込み、 弟・安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出し、殺害に至りました。 その後、弟・安宅冬康が謀反を起こそうとしているのは松永久秀による讒言であったことを知ると、一層ショックを受け病状は悪化となります。 その後も病状は回復せず永禄7年(1564)7月4日、43歳で亡くなりました。 三好長慶の死後 三好長慶の死後、三好義継が後を継ぎましたが、まだ若年であったため松永久秀と三好三人衆と呼ばれる三好長逸・三好政康・岩成友通が後見役と三好家を支えました。 しかし、松永久秀と三好三人衆は三好家の家臣であるにも関わらず、独自の働きを見せ永禄8年(1565)5月19日、将軍・足利義輝を殺害するなど行うのでした。 逸話 三好長慶は保守的で柔弱な性格であったという評価が多くされています。 その性格を表す逸話をご紹介いたします。 敵を徹底的に追い詰めない 三好長慶は長年、将軍・足利義輝と争っていました。 天文19年(1550)11月21日に勃発した中尾城の戦いにおいて、三好長慶は足利義輝と細川晴元を合戦で破ります。 敗れた足利義輝と細川晴元は近江国の朽木へと逃れました。 実際、 三好長慶は2人を追撃することができましたが、三好長慶は追撃を行わなかったとされています。 またその後、 5年間もの間も朽木を襲撃した形跡は見つかっていません。 このように追撃できるにも関わらず、追撃をしなかった理由として、 敵を徹底的に追い詰めない三好長慶の性格が反映されているとされており、織田信長のように徹底的に敵を追い詰める性格と比べると、保守的で柔弱な性格であったと評価されています。 家紋 三好長慶が使用していた家紋は「三階菱に釘抜」とされています。 もともと三好氏は阿波の大族で清和源氏小笠原氏の一族であり、鎌倉時代初期、小笠原長清の嫡男・長経が阿波守護となり、その子孫が三好郡に住んでいたため三好を名乗り始めました。 三好氏が使用する家紋「三階菱に釘抜」は小笠原氏の家紋である「三階菱」と「釘抜紋」を組み合わせたものです。 「釘抜紋」は四国地方で多く使用されている家紋とされており、三好氏は小笠原氏の家紋である「三階菱」と四国地方で多く使用されている「釘抜紋」を使用することによって小笠原の流れを組む阿波国の武将であることを示していたとされています。

次の

三好義継

三好 長慶

皆さんは「天下人」というと誰を想像するでしょうか。 やはり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑だと思います。 戦国時代というとどうもこの三英傑の時代を中心に考えがちで、それ以前の時代はおぼろげ……という方も多いかもしれませんね。 近年、信長よりも前に天下をとったと考えられているのが、三好長慶(ながよし/ちょうけい)です。 信長より12年早く生まれ、信長が天下人となる20年も前に戦国初の天下人になっていた、といわれる人物です。 大河ドラマ「麒麟がくる」では山路和弘さんが演じています。 長慶は42歳で没しているのでけっこう若いはずなのですが、山路さん演じる長慶は悪そうで渋い! 幼少期から苦難の連続であった三好長慶の人生とは、どのようなものだったのでしょうか。 (文=東 滋実) 【目次】• 父の仇・細川晴元に仕えた少年期 三好長慶の出自 三好長慶は、四国・阿波国(現在の徳島県)の武将・三好元長の嫡男として、 大永2(1522)年に誕生しました。 母の名や出身地は伝わっていませんが、聚光院の位牌に「慶春院殿南岸智英大姉」とあります。 生年は没年から逆算したもので、生まれた日は『三好家譜』によると2月13日とされますが、誤りも多い書物のため定かではありません。 幼名は千熊丸(仙熊とも)といい、元服後は伊賀守、通称を孫次郎といいました。 「長慶」の名で知られますが、当初は「利長」と名乗り、次いで「範長」と改名、さらには「長慶」と名を改めています。 長慶は若くして天下人となるワケですが、「長慶の母が懐妊したとき、館の南にある吉野川の瀬に立って、天下の英雄が生まれるよう大願をかけた」、という伝承があります。 後付けの創作のような印象がありますが、生まれた長慶は幼いころから天下人の片鱗を見せます。 父・元長と晴元の対立 長慶の父・元長は細川晴元に仕えていました。 室町幕府の三管領の一角である細川家ですが、当時は細川宗家である京兆家の家督相続をめぐって、細川澄元・晴元父子と細川高国が対立していました(永正の錯乱/両細川の乱)。 かつての管領・細川政元の3人の養子による後継者争いで、政権は高国が掌握していた頃です。 ()は出来事の年を示す。 そんな後継者争いの最中、澄元は無念にも病没、打倒高国は子の晴元に受け継がれました。 そして晴元に仕えていた元長ですが、長年の政敵であった高国を京から追い出し、 享禄4(1531)年に滅ぼすという、これ以上ないほどの功績をあげています。 しかしその後、京都で勢力を増す元長に対し、主君の晴元はこれを不安視するようになります。 そして晴元の重臣・木沢長政、同じ三好一族である三好政長(宗三)との対立も相まって、 享禄5(1532)年に一向一揆で討たれてしまうのです。 無念の死となった三好元長。 一向一揆の勃発は晴元が裏で糸を引いていた。 元長は堺の顕本寺で自刃。 切腹し、はらわたを掴み出して天井へ投げつけた、といわれています。 このとき、母とともに阿波へ帰された長慶はまだ10歳。 元服前に家督を相続することになりました。 わずか12歳にして晴元と一向一揆の和睦を斡旋 晴元は、元長を討つために本願寺光教に頼んで一向一揆を起こさせたわけですが、この後の動きがよくありませんでした。 晴元にしてみれば元長を討てば一揆は用無しですが、その後一揆はおさまることなく、さらに勢いを増して享禄・天文の乱へと発展していきます。 これを鎮圧させるために法華宗の衆徒の力を借りますが、本願寺勢力と対立する法華宗を動員したことで神経を逆なで。 火に油を注ぐ結果になりました。 これを鎮めたのが、なんと当時12歳の少年であった長慶です。 『本福寺明宗跡書』に、 天文2(1533)年6月20日に「三好仙熊(長慶)に扱をまかせて、敵方悉く敗軍す」とあり、長慶の仲介によって和睦がなったことが記録されています。 おそらくは若年の当主である長慶の名を冠して誰かが代理で働いたのでしょうが、父の死からわずか1年足らずで、若い長慶を中心としてこれだけの仕事をやってのけるほどには三好家中はまとまっていたことがわかります。 細川晴元と対立、将軍を追い出して天下人へ この頃に長慶は元服。 天文3(1534)年には晴元と戦っていますが、その後は木沢長政の仲介によって晴元に仕えることになります。 一度は晴元に敵意を表したわけですが、「まだ若いから」という理由で許されたようです。 役得……? こうして晴元のもとで働き、一揆を鎮圧するなど、次々と目覚ましい活躍を見せます。 石山本願寺には一目置かれ、15歳の若さで祝宴を開いて晴元を歓待するほどの堂々ぶり。 こうして長慶は晴元家臣として着々と力をつけていくのですが……。 晴元・三好政長らとの対立 晴元や政長に対しては、もともと「父の仇だ」という思いがくすぶっていたはずです。 時々離反しながらも、それでも晴元家臣として活躍し続けました。 天文8(1539)年、長慶は兵を伴って入京し、晴元を酒宴に招きました。 このとき、幕府料所の河内十七箇所(現在の守口市)の代官職を自分に与えてくれ、と要求します。 実はこの代官職はもともと父の元長が任命されていたのですが、彼の死後は同族で仇でもある三好政長が任命されていたのです。 が、その要求は聞き入れなかったため、長慶は直接室町幕府に訴えました。 幕府は長慶の要求が正当であるとは認めるのですが、交渉はうまくいきません。 納得のいかない長慶は兵をあげて晴元を討とうとするも、結局は六角定頼の調停による和睦で事は収まっています。 その後、長慶は越水城主となり、阿波から摂津へ拠点を移して活動することになります。 翌 天文9(1540)年には波多野秀忠の娘と結婚し、 天文11(1542)年に嫡男義興が誕生しています。 天文18(1549)年、江口の戦いで晴元・政長に勝利 その後も我慢強く仇の配下として活動しますが、 天文17(1548)年に転機が訪れました。 この前年、晴元と敵対していた遊佐長教(ながのり)を破り、六角定頼の仲介で和睦した長慶は、長教の娘を継室として迎えます。 波多野秀忠の娘とは離縁し、長教との同盟のために政略結婚をしたのです。 このころから「長慶」と名乗るようになり、ついに政敵・三好政長討伐の決意を固めます。 政長と対立することは、政長をかばう晴元とも対立することになります。 長慶は越水城で議論を重ねました。 その内容について、『細川両家記』は、「もし晴元が政長を見放すことなくかばい続けるようなら、御屋形様といえども敵と見なす」と決定した、と記しています。 同年の8月12日、長慶は政長親子を討伐するよう晴元の側近に訴えますが、聞き入れられなかったため、ついに晴元から離反。 翌 天文18年(1549)6月に江口の戦いで政長を討ちます。 政長の支援をしていた晴元は、13代将軍・足利義輝とともに近江へ逃れました。 7月9日、長慶は細川京兆家の当主にと担いだ細川氏綱を伴って入洛。 翌 天文19(1550)年3月には摂津を平定。 将軍も晴元もいない都。 三好政権の始まりです。 このときの長慶は29歳でした。 三好長慶政権 一応は主君として氏綱を据えましたが、それは形式上のことで、氏綱を通すことなく所領安堵や判物の発給を行うようになります(氏綱は傀儡として扱われたとされますが、長慶は儀礼等では氏綱を尊重していたようです)。 こういった行政面では、家臣の松永久秀らが大いに活躍しました。 将軍・義輝との関係 近江に追いやった晴元、義輝とは、それ以降もいざこざが続きます。 天文20(1551)年には将軍の家臣による長慶暗殺未遂事件が起こります。 天文21(1552)年に義輝の上洛、そして長慶が晴元の子・昭元を取り立てることを条件に和睦がなります。 このとき晴元は出家して家督を氏綱に譲ることも条件のひとつでした。 長慶は御供衆に就任し、管領細川家の家臣から、将軍の直臣へと出世。 それぞれがおさまるところにおさまりながらも、長慶が実権を握るという状況は変わりません。 義輝、晴元の不満は相変わらずで、翌 天文22(1553)年には再び挙兵して長慶と争い……敗れた義輝は再び近江へ逃れ、朽木谷で5年耐え忍ぶことになります。 結局、義輝が再び京へ戻るのは、 永禄元(1558)年でした。 長慶の最盛期 その後、長慶は 永禄3(1560)年に御相伴衆に加わり、さらに修理大夫に任ぜられます。 それと同時に、嫡男の義興は御供衆、そして筑前守へ。 長慶はこの年、家督を義興に譲り、自らは飯盛山城へ移ります。 三好長慶の要所・合戦マップ。 青マーカーは長慶の各居城。 色塗エリアは畿内5か国。 永禄年間はまさに三好長慶の最盛期で、勢力は山城・摂津・河内・和泉・大和の畿内5か国に加え、丹波・淡路・阿波・讃岐・播磨と伊予の一部、さらには丹後や若狭の地方にも広がっていました。 イエズス会から見た三好長慶 この全盛期に、長慶はイエズス会の畿内でのキリスト教布教を許可するなど、異教への理解を示しています。 のちに信長がイエズス会を庇護したことは広く知られていますが、それよりも前に、長慶が寛容な心でキリスト教布教を許可し、彼らを庇護していたのでした。 イエズス会のフェルナンデスによるイエズス会員宛ての報告には、外国人の目線での興味深い評価が見られます。 フェルナンデスは、都の政治は3人に依存しているとします。 1に将軍である公方様(イエズス会は日本全国の王と呼ぶ)• 2にその家臣である三好長慶• 3に三好家臣の松永久秀 1の将軍には「王」としての名声以外にはなにもなく、2の長慶が家臣でありながら権力を持っている。 そして3の松永久秀は、長慶に臣従して国を治め、法を司っている。 当時実権を握っていたのは長慶であり、その家臣である久秀が手足となって国を動かしていた、と見たようです。 イエズス会から見ても、長慶が天下人と言っていい立場にあったことがうかがえます。 文化人としての長慶 さて、長慶は政治面で才能を発揮した一方、優れた文化人でもありました。 三好一族でも、弟の実休や政敵の三好政長(宗三)らが茶の湯を好んだ一方、長慶は連歌や和歌を好みました。 特に晩年は連歌に傾倒しました。 戦国時代は、細川藤孝(幽斎)など連歌を好んだ武将は多いですが、長慶はその第一人者といってもいい人物です。 禁裏で行われた歌会にも参加し、後奈良天皇の宸筆(天皇真跡の意)『古今和歌集』を下賜され、山科言継に『玉葉和歌集』の書写を依頼するなど、和歌に興味を示しました。 長慶自身、自ら『後撰和歌集』の書写も行っています。 僧で茶人の大林宗套(だいりんそうとう)は、長慶の三回忌に「心に万葉・古今の歌道を諳(そらん)じ、風月を吟弄(ぎんろう)すること三千」と言って賞賛したといわれます。 細川藤孝ものちに、「修理大夫(長慶のこと)連歌は、いかにも案じてしたる連歌なりしなり」(『日本歌学大系』所収の『耳底記』より)と、長慶の連歌はよく推敲された句であると評価したことが伝わっています。 相次ぐ身内の死 晩年の永禄年間は三好長慶の最盛期でしたが、不幸も続きました。 身内が次々と亡くなったのです。 十河一存・三好実休の死 最初に、 永禄4(1561)年4月23日、弟の十河一存(そごうかずまさ)が亡くなりました。 松永久秀が暗殺したという説もありますが、死因は病死であったといわれます。 続くように、翌年の3月5日、長慶のすぐ下の弟・実休が久米田の戦いで敗死します。 嫡男・義興の死 何よりもつらかったのは、嫡男・義興の死でしょう。 永禄6(1563)年8月25日、義興は22歳の若さで亡くなります。 これも松永久秀の暗殺という説がありますが、後世の創作によるもので、実際は病死であったといわれます。 松永久秀の讒言で弟・安宅冬康を誅殺? 毎年のように肉親を失った長慶の精神は不安定になり、翌 永禄7(1564)年5月9日、長慶は唯一残っていた弟の安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城へ呼び出し、誅殺しました。 この事件は、松永久秀の讒言によって起こったという説がよく知られていますが、長慶が自分の考えで冬康を殺した、という説もあります。 嫡男の義興亡き後は、弟の十河一存の子・義継を養子に迎えて後継者としましたが、家中の目は優秀な冬康に向いており、これに危機感を持ったためともいわれます。 冬康は、人を軽視する兄・長慶に鈴虫を贈り、「夏虫である鈴虫でも大切に飼えば冬まで生きられるのです。 まして人ならなおさらです」と諫めた逸話が残っており、かなり温和で人徳のある人物であったようです。 長慶の最期 長慶は、弟の冬康を殺した二か月後の7月4日に飯盛山城で亡くなります。 病死であったといわれますが、一説にはうつ病であったとか。 相次ぐ身内の死で心身を病み、義興の死が大きなきっかけとなって病状は悪化。 冬康を死に追いやった後悔もあったのかもしれません。 長慶の死は二年後の葬礼まで秘匿されました。 その後、三好家は義継の後見として三好三人衆、松永久秀らが支えますが、やがて内側から瓦解。 天下は、15代将軍・義昭とともに入洛した織田信長に傾いていくのです。 【参考文献】• 『国史大辞典』(吉川弘文館)• 今谷明・天野忠幸 監修『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(宮帯出版社、2013年)• 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)• 藤岡周三『戦国ドキュメント 松永久秀の真実』(文芸社、2007年)•

次の

三好長慶の弟で鬼十河といわれた「十河一存」をわかりやすく歴女が解説

三好 長慶

皆さんは「天下人」というと誰を想像するでしょうか。 やはり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑だと思います。 戦国時代というとどうもこの三英傑の時代を中心に考えがちで、それ以前の時代はおぼろげ……という方も多いかもしれませんね。 近年、信長よりも前に天下をとったと考えられているのが、三好長慶(ながよし/ちょうけい)です。 信長より12年早く生まれ、信長が天下人となる20年も前に戦国初の天下人になっていた、といわれる人物です。 大河ドラマ「麒麟がくる」では山路和弘さんが演じています。 長慶は42歳で没しているのでけっこう若いはずなのですが、山路さん演じる長慶は悪そうで渋い! 幼少期から苦難の連続であった三好長慶の人生とは、どのようなものだったのでしょうか。 (文=東 滋実) 【目次】• 父の仇・細川晴元に仕えた少年期 三好長慶の出自 三好長慶は、四国・阿波国(現在の徳島県)の武将・三好元長の嫡男として、 大永2(1522)年に誕生しました。 母の名や出身地は伝わっていませんが、聚光院の位牌に「慶春院殿南岸智英大姉」とあります。 生年は没年から逆算したもので、生まれた日は『三好家譜』によると2月13日とされますが、誤りも多い書物のため定かではありません。 幼名は千熊丸(仙熊とも)といい、元服後は伊賀守、通称を孫次郎といいました。 「長慶」の名で知られますが、当初は「利長」と名乗り、次いで「範長」と改名、さらには「長慶」と名を改めています。 長慶は若くして天下人となるワケですが、「長慶の母が懐妊したとき、館の南にある吉野川の瀬に立って、天下の英雄が生まれるよう大願をかけた」、という伝承があります。 後付けの創作のような印象がありますが、生まれた長慶は幼いころから天下人の片鱗を見せます。 父・元長と晴元の対立 長慶の父・元長は細川晴元に仕えていました。 室町幕府の三管領の一角である細川家ですが、当時は細川宗家である京兆家の家督相続をめぐって、細川澄元・晴元父子と細川高国が対立していました(永正の錯乱/両細川の乱)。 かつての管領・細川政元の3人の養子による後継者争いで、政権は高国が掌握していた頃です。 ()は出来事の年を示す。 そんな後継者争いの最中、澄元は無念にも病没、打倒高国は子の晴元に受け継がれました。 そして晴元に仕えていた元長ですが、長年の政敵であった高国を京から追い出し、 享禄4(1531)年に滅ぼすという、これ以上ないほどの功績をあげています。 しかしその後、京都で勢力を増す元長に対し、主君の晴元はこれを不安視するようになります。 そして晴元の重臣・木沢長政、同じ三好一族である三好政長(宗三)との対立も相まって、 享禄5(1532)年に一向一揆で討たれてしまうのです。 無念の死となった三好元長。 一向一揆の勃発は晴元が裏で糸を引いていた。 元長は堺の顕本寺で自刃。 切腹し、はらわたを掴み出して天井へ投げつけた、といわれています。 このとき、母とともに阿波へ帰された長慶はまだ10歳。 元服前に家督を相続することになりました。 わずか12歳にして晴元と一向一揆の和睦を斡旋 晴元は、元長を討つために本願寺光教に頼んで一向一揆を起こさせたわけですが、この後の動きがよくありませんでした。 晴元にしてみれば元長を討てば一揆は用無しですが、その後一揆はおさまることなく、さらに勢いを増して享禄・天文の乱へと発展していきます。 これを鎮圧させるために法華宗の衆徒の力を借りますが、本願寺勢力と対立する法華宗を動員したことで神経を逆なで。 火に油を注ぐ結果になりました。 これを鎮めたのが、なんと当時12歳の少年であった長慶です。 『本福寺明宗跡書』に、 天文2(1533)年6月20日に「三好仙熊(長慶)に扱をまかせて、敵方悉く敗軍す」とあり、長慶の仲介によって和睦がなったことが記録されています。 おそらくは若年の当主である長慶の名を冠して誰かが代理で働いたのでしょうが、父の死からわずか1年足らずで、若い長慶を中心としてこれだけの仕事をやってのけるほどには三好家中はまとまっていたことがわかります。 細川晴元と対立、将軍を追い出して天下人へ この頃に長慶は元服。 天文3(1534)年には晴元と戦っていますが、その後は木沢長政の仲介によって晴元に仕えることになります。 一度は晴元に敵意を表したわけですが、「まだ若いから」という理由で許されたようです。 役得……? こうして晴元のもとで働き、一揆を鎮圧するなど、次々と目覚ましい活躍を見せます。 石山本願寺には一目置かれ、15歳の若さで祝宴を開いて晴元を歓待するほどの堂々ぶり。 こうして長慶は晴元家臣として着々と力をつけていくのですが……。 晴元・三好政長らとの対立 晴元や政長に対しては、もともと「父の仇だ」という思いがくすぶっていたはずです。 時々離反しながらも、それでも晴元家臣として活躍し続けました。 天文8(1539)年、長慶は兵を伴って入京し、晴元を酒宴に招きました。 このとき、幕府料所の河内十七箇所(現在の守口市)の代官職を自分に与えてくれ、と要求します。 実はこの代官職はもともと父の元長が任命されていたのですが、彼の死後は同族で仇でもある三好政長が任命されていたのです。 が、その要求は聞き入れなかったため、長慶は直接室町幕府に訴えました。 幕府は長慶の要求が正当であるとは認めるのですが、交渉はうまくいきません。 納得のいかない長慶は兵をあげて晴元を討とうとするも、結局は六角定頼の調停による和睦で事は収まっています。 その後、長慶は越水城主となり、阿波から摂津へ拠点を移して活動することになります。 翌 天文9(1540)年には波多野秀忠の娘と結婚し、 天文11(1542)年に嫡男義興が誕生しています。 天文18(1549)年、江口の戦いで晴元・政長に勝利 その後も我慢強く仇の配下として活動しますが、 天文17(1548)年に転機が訪れました。 この前年、晴元と敵対していた遊佐長教(ながのり)を破り、六角定頼の仲介で和睦した長慶は、長教の娘を継室として迎えます。 波多野秀忠の娘とは離縁し、長教との同盟のために政略結婚をしたのです。 このころから「長慶」と名乗るようになり、ついに政敵・三好政長討伐の決意を固めます。 政長と対立することは、政長をかばう晴元とも対立することになります。 長慶は越水城で議論を重ねました。 その内容について、『細川両家記』は、「もし晴元が政長を見放すことなくかばい続けるようなら、御屋形様といえども敵と見なす」と決定した、と記しています。 同年の8月12日、長慶は政長親子を討伐するよう晴元の側近に訴えますが、聞き入れられなかったため、ついに晴元から離反。 翌 天文18年(1549)6月に江口の戦いで政長を討ちます。 政長の支援をしていた晴元は、13代将軍・足利義輝とともに近江へ逃れました。 7月9日、長慶は細川京兆家の当主にと担いだ細川氏綱を伴って入洛。 翌 天文19(1550)年3月には摂津を平定。 将軍も晴元もいない都。 三好政権の始まりです。 このときの長慶は29歳でした。 三好長慶政権 一応は主君として氏綱を据えましたが、それは形式上のことで、氏綱を通すことなく所領安堵や判物の発給を行うようになります(氏綱は傀儡として扱われたとされますが、長慶は儀礼等では氏綱を尊重していたようです)。 こういった行政面では、家臣の松永久秀らが大いに活躍しました。 将軍・義輝との関係 近江に追いやった晴元、義輝とは、それ以降もいざこざが続きます。 天文20(1551)年には将軍の家臣による長慶暗殺未遂事件が起こります。 天文21(1552)年に義輝の上洛、そして長慶が晴元の子・昭元を取り立てることを条件に和睦がなります。 このとき晴元は出家して家督を氏綱に譲ることも条件のひとつでした。 長慶は御供衆に就任し、管領細川家の家臣から、将軍の直臣へと出世。 それぞれがおさまるところにおさまりながらも、長慶が実権を握るという状況は変わりません。 義輝、晴元の不満は相変わらずで、翌 天文22(1553)年には再び挙兵して長慶と争い……敗れた義輝は再び近江へ逃れ、朽木谷で5年耐え忍ぶことになります。 結局、義輝が再び京へ戻るのは、 永禄元(1558)年でした。 長慶の最盛期 その後、長慶は 永禄3(1560)年に御相伴衆に加わり、さらに修理大夫に任ぜられます。 それと同時に、嫡男の義興は御供衆、そして筑前守へ。 長慶はこの年、家督を義興に譲り、自らは飯盛山城へ移ります。 三好長慶の要所・合戦マップ。 青マーカーは長慶の各居城。 色塗エリアは畿内5か国。 永禄年間はまさに三好長慶の最盛期で、勢力は山城・摂津・河内・和泉・大和の畿内5か国に加え、丹波・淡路・阿波・讃岐・播磨と伊予の一部、さらには丹後や若狭の地方にも広がっていました。 イエズス会から見た三好長慶 この全盛期に、長慶はイエズス会の畿内でのキリスト教布教を許可するなど、異教への理解を示しています。 のちに信長がイエズス会を庇護したことは広く知られていますが、それよりも前に、長慶が寛容な心でキリスト教布教を許可し、彼らを庇護していたのでした。 イエズス会のフェルナンデスによるイエズス会員宛ての報告には、外国人の目線での興味深い評価が見られます。 フェルナンデスは、都の政治は3人に依存しているとします。 1に将軍である公方様(イエズス会は日本全国の王と呼ぶ)• 2にその家臣である三好長慶• 3に三好家臣の松永久秀 1の将軍には「王」としての名声以外にはなにもなく、2の長慶が家臣でありながら権力を持っている。 そして3の松永久秀は、長慶に臣従して国を治め、法を司っている。 当時実権を握っていたのは長慶であり、その家臣である久秀が手足となって国を動かしていた、と見たようです。 イエズス会から見ても、長慶が天下人と言っていい立場にあったことがうかがえます。 文化人としての長慶 さて、長慶は政治面で才能を発揮した一方、優れた文化人でもありました。 三好一族でも、弟の実休や政敵の三好政長(宗三)らが茶の湯を好んだ一方、長慶は連歌や和歌を好みました。 特に晩年は連歌に傾倒しました。 戦国時代は、細川藤孝(幽斎)など連歌を好んだ武将は多いですが、長慶はその第一人者といってもいい人物です。 禁裏で行われた歌会にも参加し、後奈良天皇の宸筆(天皇真跡の意)『古今和歌集』を下賜され、山科言継に『玉葉和歌集』の書写を依頼するなど、和歌に興味を示しました。 長慶自身、自ら『後撰和歌集』の書写も行っています。 僧で茶人の大林宗套(だいりんそうとう)は、長慶の三回忌に「心に万葉・古今の歌道を諳(そらん)じ、風月を吟弄(ぎんろう)すること三千」と言って賞賛したといわれます。 細川藤孝ものちに、「修理大夫(長慶のこと)連歌は、いかにも案じてしたる連歌なりしなり」(『日本歌学大系』所収の『耳底記』より)と、長慶の連歌はよく推敲された句であると評価したことが伝わっています。 相次ぐ身内の死 晩年の永禄年間は三好長慶の最盛期でしたが、不幸も続きました。 身内が次々と亡くなったのです。 十河一存・三好実休の死 最初に、 永禄4(1561)年4月23日、弟の十河一存(そごうかずまさ)が亡くなりました。 松永久秀が暗殺したという説もありますが、死因は病死であったといわれます。 続くように、翌年の3月5日、長慶のすぐ下の弟・実休が久米田の戦いで敗死します。 嫡男・義興の死 何よりもつらかったのは、嫡男・義興の死でしょう。 永禄6(1563)年8月25日、義興は22歳の若さで亡くなります。 これも松永久秀の暗殺という説がありますが、後世の創作によるもので、実際は病死であったといわれます。 松永久秀の讒言で弟・安宅冬康を誅殺? 毎年のように肉親を失った長慶の精神は不安定になり、翌 永禄7(1564)年5月9日、長慶は唯一残っていた弟の安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城へ呼び出し、誅殺しました。 この事件は、松永久秀の讒言によって起こったという説がよく知られていますが、長慶が自分の考えで冬康を殺した、という説もあります。 嫡男の義興亡き後は、弟の十河一存の子・義継を養子に迎えて後継者としましたが、家中の目は優秀な冬康に向いており、これに危機感を持ったためともいわれます。 冬康は、人を軽視する兄・長慶に鈴虫を贈り、「夏虫である鈴虫でも大切に飼えば冬まで生きられるのです。 まして人ならなおさらです」と諫めた逸話が残っており、かなり温和で人徳のある人物であったようです。 長慶の最期 長慶は、弟の冬康を殺した二か月後の7月4日に飯盛山城で亡くなります。 病死であったといわれますが、一説にはうつ病であったとか。 相次ぐ身内の死で心身を病み、義興の死が大きなきっかけとなって病状は悪化。 冬康を死に追いやった後悔もあったのかもしれません。 長慶の死は二年後の葬礼まで秘匿されました。 その後、三好家は義継の後見として三好三人衆、松永久秀らが支えますが、やがて内側から瓦解。 天下は、15代将軍・義昭とともに入洛した織田信長に傾いていくのです。 【参考文献】• 『国史大辞典』(吉川弘文館)• 今谷明・天野忠幸 監修『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(宮帯出版社、2013年)• 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)• 藤岡周三『戦国ドキュメント 松永久秀の真実』(文芸社、2007年)•

次の