平泉 芭蕉。 【駅前芭蕉館】奥州・平泉・一関・うどん・そば

芭蕉館 (平泉町) の口コミ17件

平泉 芭蕉

夏草や 兵共が 夢の跡 義経堂から東を望むと、北上川の向こうに秀峯・束稲山が見えます。 この山は、かつて安倍頼時の時代に、桜の木を一万本植えたといわれる桜の名所でした。 黄金文化華やかし藤原三代のころには、さぞや見事な花が山々や川面を彩ったことでしょう。 俳聖・松尾芭蕉が門人・曽良を伴い、平泉を訪れたのは元禄2年(1689)旧暦5月13日(6月29日)のこと。 高館に立ち、眼下に広がる夏草が風に揺れ光る様を眺めた芭蕉は、100年にわたり平泉文化を築き上げた奥州藤原氏の栄華や、この地に散った義経公を思い、かの名句を詠みました。 三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。 秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。 先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。 (中略)「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て時のうつるまで泪を落し待りぬ。 夏草や 兵共が 夢の跡 名勝 おくのほそ道の風景地 かつて芭蕉が旅し、俳句に詠んだ景勝地は今も各地に残っています。 私達の目を楽しませ、時代のよすがを感じさせるこれらの地は、一体的な風致景観として、平成26年に高館を含む13箇所が名勝として一括指定されました。 現在は他の景勝地の追加指定も進んでいます。 PAGE TOP 岩手県平泉町 高館義経堂 お問い合わせ先 高館義経堂 〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所14 TEL:0191-46-3300 毛越寺 〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58 TEL:0191-46-2331 Copyright C 2006 Gikeido All Right Rrserved. 当ウェブサイト内の記事・写真の無断転用を固く禁じます。

次の

芭蕉句碑|松尾芭蕉と中尊寺|五月雨の 降残してや 光堂

平泉 芭蕉

""(2012年7月19日閲覧。 ""(2012年7月19日閲覧。 平泉町""(2012年7月19日閲覧。 ""(2012年7月19日閲覧。 在リオデジャネイロ日本国総領事館""(2012年7月19日閲覧。 UNESCO News Archive. 2011年6月25日. 2011年6月26日閲覧。 平成26年3月18日文部科学省告示第31号• 「ノ東南ニ高峯アリ。 秀衡コレヲ駿州ノ慈峯()ニ擬ス。 カツ金鶏一匹ヲ峯頭ニ埋メ、金鶏山ト号ス」(『奥州観蹟聞老志』) 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

次の

芭蕉館

平泉 芭蕉

『奥の細道』 松尾芭蕉は、江戸・深川を出発してから44日目、5月13日(新暦6月29日)に、奥州平泉を訪れ、夏草が生い茂る荒野の風景を目の当たりにしました。 岩手県南西部に位置するこの地は、11世紀末から12世紀にかけての約90年間、藤原清衡(きよひら)に始まる奥州藤原氏が、栄華を極めた都市です。 そして、兄・源頼朝に追われた義経が最期に身を寄せた場所でもあります。 この地に立って、芭蕉は、500年前に滅んだ藤原三代の栄華と源義経の最期に、想いをはせたことでしょう。 杜甫の名句 「国破れて山河在り 城春にして草木深し」とつぶやき、時を忘れて涙を流したと、『奥の細道』に記しています。 芭蕉は、この平泉で2つの俳句を残しました。 スポンサーリンク (1)夏草や 兵どもが 夢の跡 まずは、平泉の荒野で一句……… 「夏草や 兵どもが 夢の跡」 (意味)高館にのぼってあたりを見渡すと、藤原氏の栄華の痕跡はあとかたもなく、ただ夏草が茂る風景が広がるばかりだ。 (この夏草を眺めていると、すべてが夢と消えた儚さに心が誘われるなあ) 自然(夏草)と人事(兵どもが夢の跡)が、対比的に用いられています。 人間の思うこと・やることは儚く消えゆくのに、自然は何があっても変わらずたくましく存在しています。 『平家物語』の諸行無常をに通じるものがありますね。 ちなみに、ここで同行者の 河合曾良も句作しています。 「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」 義経主従が藤原泰衡の軍勢と戦ったとき、白髪を振り乱して、勇猛果敢に戦った兼房について詠んだ曾良の句です。 義経の老臣・兼房は、高館最期の日に、義経一家の最期を見届けた後、館に火を放ち、敵の大将ともども火の中に飛び込み、壮絶な最期を遂げたと伝わります。 (架空の人物ともいわれます) 白い「卯の花」から「兼房の白髪」を連想して、当時に想いをはせて詠んだものですね。 (2)五月雨の 降り残してや 光堂 続いて、芭蕉は平泉の中尊寺を訪れ、美しい金色堂を参詣しました。 ここで詠んだ句は、先の「夏草や~」とセットで出されることが多いです。 「五月雨の 降り残してや 光堂」 (意味)あらゆるものに降り注ぎ、朽ちさせる五月雨も、この「光堂」にだけは雨を降らせず残してくれたかのようだ。 500年経っても「光堂」は色あせずに美しいままだなあ。 (光堂(ひかりどう)は、中尊寺の「金色堂」を指します。 ) この句も先のと同じく、移り変わる人の世と、時が流れても変わらず光り輝く「光堂」との対比が、感じられますね。 おわりに 松尾芭蕉は、この平泉に午前中3~4時間ほど滞在したようです。 『奥の細道』に記載されているのは、ほぼ史実どおりですが、経堂はこのとき実際は閉じられていて、芭蕉は中を見ていません。 経堂に「三将の像」があると記していますが、実際にあるのは光堂です。 これは、芭蕉が勘違いしたのだろうといわれています。 ちなみに、当時、金色堂(光堂)を保護していたのは、やはり仙台藩伊達家でした。

次の